† 心のデボーション 02771
「ヱホバよ汝のみわざは大なるかな汝のもろもろの思念はいとふかし」 詩篇92:5 明治元訳聖書
「主よ、あなたのみわざは/いかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、」 口語訳聖書
「神の御業」
神の御業は「いかにも大きく」、その思いは「いとも深い」。(詩篇92:5) 「愚か者・無知な者」には「これがわからない」。(詩篇92:7) 神はそれらを「賢い者」にではなく、「小さな者」に顕される。
(†心のデボーション02771)
† 心のデボーション 02772
「愛のつなをもて彼等をひけり」 ホセア11:4 明治元訳聖書
「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」 新改訳聖書
「愛の綱」
母親から愛を受け損なった子どもは、人に自分の本心を打ち明けられなくなる傾向がある。見捨てられる悲しみが繰り返されることを恐れて人間関係に臆病になってしまうのである。見捨てられる不安は再び見出されることによって回復する。神は傷ついた子どもを「人間の綱」で引き寄せられる。この綱は強く、切断されることがない。「人間の綱」とは「愛のきずな」のことである。
(†心のデボーション02772)
† 心のデボーション 02773
「望を得ること遅きときは心を疾しめ 願ふ所旣にとぐるときは生命の樹を得たるがごとし」 箴言13:12 明治元訳聖書
「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。」 口語訳聖書
「二股をかける心」
「臆病な心、怠惰な手/二股をかける罪人は災いだ。」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:12 新共同訳聖書
「臆病な心」をフランシスコ会訳聖書は「ものおじする心」、「怠惰な手」は「無気力な手」と訳す。「臆病」や「怠惰」が悪いのではなく、心が「ものおじ」して神に求めることをせず、「手」が「無気力」になって動けるのに動かなくなるのが問題のであろうか? 要は心が二股に揺れることが問題である。
(†心のデボーション02773)
† 心のデボーション 02774
「數日の後パウロはバルナバに言ふ『いざ、我ら曩に主の御言を傳へし凡ての町にまた往きて、兄弟たちを訪ひ、その安否を尋ねん』」 使徒15:36 大正文語訳聖書
「幾日かの後、パウロはバルナバに言った、『さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか』。」 口語訳聖書
「訪問」
パウロはバルナバに、「前に主の言葉を伝えた町の兄弟たちを、また訪問しよう」と語る。「訪問 ἐπιστρέφω」は「向きを変える」で、文字通り足の向きを変えて出発するのが「訪問」である。それに加えて、訪問を受ける人は訪問によって「向きが変わる」ということもある。良い訪問は良い向きを変える。
(†心のデボーション02774)
† 心のデボーション 02775
「柔和なる答は憤恨をとどめ厲しき言は怒を激す」 箴言15:1 明治元訳聖書
「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。」 口語訳聖書
「静かな怒鳴り声」
激しいことばを使われると、人は萎縮し、口を閉ざす。激しいことばは罵声とは限らない。「静かな怒鳴り声」もある。自分では「この程度のこと」でも、人はそれで傷つく。これくらいで傷つく気持ちがわからないという前に、相手にことばを飲み込ませてしまう自分の激しさに気づかなければならない。ことばを「柔らかく」する努力よりも、相手に聞くことである。その内的な「柔らかさ」が隠れた激しさを鎮めてくれる。
(†心のデボーション02775)
† 心のデボーション 02776
「今よりのち水のみを飮まず、胃のため、又しばしば病に罹る故に、少しく葡萄酒を用ひよ。」 Ⅰテモテ5:23 大正文語訳聖書
「これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい。」 口語訳聖書
「たびたびの病」
「たびたびおこる病 πυκνός」というものがある。「πυκνός」は「ぎっしりつまっているもの」の意味である。「病 ἀσθένεια」には「無力、弱さ」の意味もある。薬の限られていた時代には少量の葡萄酒が薬になったのかもしれない。人の身体には病がぎっしりつまっているが、それと同量の病を癒す力がぎっしりつまっている。
(†心のデボーション02776)
† 心のデボーション 02777
「イエスあまねくガリラヤを巡り、會堂にて教をなし、御國の福音を宣べつたへ、民の中のもろもろの病、もろもろの疾患をいやし給ふ」 マタイ4:23 大正文語訳聖書
「イエズスは全ガリラヤをめぐってユダヤ人の会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、また民のすべての病と長患いとをお治しになった」 フランシスコ会訳聖書
「弱さ、病弱」
「病 νόσος ノソス」は「病気、病苦、狂気、錯乱、苦痛、苦悩、災難、災禍」である。「患い malaki,a マラキア」は「柔らかい」からくる言葉で「弱さ、病弱」を意味する。イエスは人間のあらゆる病、人間のあらゆる「弱さ、ひ弱さ」をいやされる。「病 νόσος ノソス」と「患い μαλακία マらキア 弱さ、ひ弱さ」を知らない者がいるだろうか。
(†心のデボーション02777)
† 心のデボーション 02778
「されど富まんと欲する者は、誘惑と羂、また人を滅亡と沈淪とに溺らす愚にして害ある各樣の慾に陷るなり。」 Ⅰテモテ6:9 大正文語訳聖書
「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。」 口語訳聖書
「無分別な欲望」
「富」への欲望が、「無分別な恐ろしいさまざまの情欲」を引き起こし、「人を滅びと破壊とに沈ませる」。(口語訳聖書) 「無分別 ἀνόητος」は「α 否定+ νοέω 認識」で「悟ろうと(分かろうと)しない心」である。無分別な欲望から滅びがはじまる。
(†心のデボーション02778)
† 心のデボーション 02779
「その子いまだ生れず、善も惡もなさぬ間に、神の選の御旨は動かず、」 ロマ9:11 大正文語訳聖書
「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、」 口語訳聖書
「神の器」
ものを造る人に求められるのは、それが売れるかどうかである。売れない限り、価値が認められることはない。そのような社会では、他人が自分にいくらの値段をつけてくれるか気になり、買い手が現われなければ生きる価値もないと思ってしまう。神は同じ土のかたまりから、ある人を「尊きに用いる器」にある人を「つまらないことに用いる器」に作られる。どちらも同じ神の器であり、神は作り手であると同時に買い手である。
(†心のデボーション02779)
† 心のデボーション 02780
「萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し」 伝道1:8 明治元訳聖書
「すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。」 口語訳聖書
「新しい時」
人がう み疲れるのは、「目が見ることに満ち足りず」、「耳が聞くことに満足しない」からである。なにも新しいものが見えず、聞かないのである。見えないものを見、声なきものに聞くことだ。時は常に新しい時を刻むのである。
(†心のデボーション02780)
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