心のデボーション277

デボーション1
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† 心のデボーション 02761

「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる權をあたへ給へり。」 ヨハネ1:12 大正文語訳聖書

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 口語訳聖書

 「生ける神の子」

神は御言葉を受け入れた者に「生ける神の子」となる「力」を与えられた。人を「神の子」とする力は、「御言葉」すなわち、主イエス・キリストにある。

「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。」 詩篇119:1 新共同訳聖書

(†心のデボーション02761)

† 心のデボーション 02762

「愛は隣を害はず、この故に愛は律法の完全なり」 ロマ13:10 大正文語訳聖書

「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである」 口語訳聖書

 「やさしさのジレンマ」

冬の寒い日、ヤマアラシのカップルがトゲで相手を傷つけないように適当な距離をおいて寄り添って暖をとろうとした。(「ヤマアラシ・ジレンマ」より)あまり深くかかわりをもとうとしないのがやさしさだろうか? やさしさのジレンマは自分も相手もヤマアラシのように全身がトゲで覆われていると考えるところからくる。やさしさといいながら実はトゲを立てて接近している。しかし、愛はやさしさのジレンマを解決する唯一の方法である。どうすればよいだろうか?

(†心のデボーション02762)

† 心のデボーション 02763

「汝新しき家を建る時はその屋蓋の周圍に欄杆を設くべし是は人その上より堕てこれが血の汝の家に歸すること無らんためなり」 申命22:8 明治元訳聖書

「新しい家を建てる時は、屋根に欄干を設けなければならない。それは人が屋根から落ちて、血のとがをあなたの家に帰することのないようにするためである。」 口語訳聖書

 「三隣亡」

「三隣亡」は向三軒両隣を亡ぼすとして、この日には棟上げや土起こしを避ける。1・4・7・10月は亥の日、2・5・8・11月は寅の日、3・6・9・12月は午の日と決まっている。根拠は定かではない。人生の大切な日を誰からも祝ってもらうには、なすべきことが他にありそうな日である。

(†心のデボーション02763)

† 心のデボーション 02764

「坑を掘る者はみづから之におちいり石垣を毀つ者は蛇に咬れん」 伝道10:8 明治元訳聖書

「穴を掘る者はみずからこれに陥り、石がきをこわす者は、へびにかまれる。」 口語訳聖書

 「石垣の蛇」

「石がきをこわす」は、他人の家を破壊する行為で、そんなことをすれば、石垣に隠れている蛇にかまれると警告されている。石垣に隠れているのは「蛇」ばかりではない。

(†心のデボーション02764)

† 心のデボーション 02765

「この故に、なんぢら心の腰に帶し、愼みてイエス・キリストの現れ給ふときに、與へられんとする恩惠を疑はずして望め。」 Ⅰペテロ1:13 大正文語訳聖書

「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。」 口語訳聖書

 「ひたすらな心」

ひたむきな人は待つことのできる人である。聖書は何かが熱するのを待つのを「ひたすらな心」と呼ぶ。ペテロはここで、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みをひたすらに待ち望むようにとすすめる。待つ人は恵みが熟するのを「今」の瞬間にとらえる。待つこと自体が、恵みの現われである。「ひたすらな心」が失われるとき、人はわきまえのない人間になっていくようである。

(†心のデボーション02765)

† 心のデボーション 02766

「録して 「こののち我かへりて、 倒れたるダビデの幕屋を再び造り、 その頽れし所をふたたび造り、 而して之を立てん。」 使徒15:16 大正文語訳聖書

「その後、わたしは帰ってきて、/倒れたダビデの幕屋を建てかえ、/くずれた箇所を修理し、/それを立て直そう。」 口語訳聖書

 「再び建てる」

神殿は何度も破壊された。「倒れたダビデの幕屋」は、その都度、「建て直す ἀνοικοδομέω(再び建てる)」しなければならない。「崩れた祈りの場」をもう一度建てる。

(†心のデボーション02766)

† 心のデボーション 02767

「直ちに舟と父とを置きて從ふ」 マタイ4:22 大正文語訳聖書

「彼らもただちに舟と父とを残して、イエズスに従った」 フランシスコ会訳聖書

 「イエスの弟子」

イエスを主と告白する者はすべて「イエスの弟子」である。(ルカ6:17、使徒6:7)イエスの弟子のすべてが「家や職業、家族」を捨てるのではない。「家や職業、家族」を持ちながらイエスに従う者も「イエスの弟子」である。しかし、従い方の違いはあっても、「何かを差し置いて」イエスに従うことに変わりはない。

(†心のデボーション02767)

† 心のデボーション 02768

「汝が盈せるに非る諸の佳物を盈せる家を得させ汝が堀たる者にあらざる堀井を得させたまふべし汝は食ひて飽ん」 申命記6:11 明治元訳聖書

「あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。」 口語訳聖書

 「掘らなかった井戸」

井戸を掘る人は水脈を読む。周囲を見渡し、ここぞという地面を掘る。水の出そうなところは、あらかた掘りつくした。そろそろ、別の土地に移るべきだろうか? しかし、「まだ、あなたの掘らなかった掘り戸がある」というみ言葉がその思いをとどめる。残されているのは、「主がおられ、生きておられるのを忘れないための井戸」である。もう一度、「自分」を掘ってみたい。

(†心のデボーション02768)

† 心のデボーション 02769

「王いふ『善いかな、良き僕、なんぢは小事に忠なりしゆゑ、十の町を司どるべし』」 ルカ19:17 大正文語訳聖書

「主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。」 口語訳聖書

 「いと小さきもの」

「いと小さいものにも、汝にはいと大いなるものの如くであれ」。(トマス・アケンピス『基督のまねび』より)「いと小さきもの」に対しても、「いと大いなるもの」に対するようにありたい。神が与えて下さるもので、無視してよいものなど一つもない。

(†心のデボーション02769)

† 心のデボーション 02770

「もろもろの天は神の義をあらはせり 神はみづから審士たればなりセラ」 詩篇50:6 明治元訳聖書

「天は神の義をあらわす、神はみずから、さばきぬしだからである。〔セラ〕」 口語訳聖書

 「神の深事」

「彼〔キリスト〕は自己(おのれ)を我に顕はし給ふ、彼は神の深事(ふかきこと)を我に示し給ふ 」。(内村鑑三『内村鑑三随筆集』より) 「神の深事」は御言葉にあり、御心に従って求める者に顕される。

(†心のデボーション02770)

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