† 心のデボーション 02721
「彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき」 ヨハネ1:10 大正文語訳聖書
「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 口語訳聖書
「識」
明治元訳聖書は「世は彼を知らずにいた」(口語訳聖書)を「世これを識ず」と訳す。「識」は仏教においては常に新しく生成する認識を意味する。聖書は「識」遂に届かぬところに神を認める。「知らない」と断じるところから神を知ることをはじめなければならない。
(†心のデボーション02721)
† 心のデボーション 02722
「視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。」 マタイ10:16 大正文語訳聖書
「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」 口語訳聖書
「すなおさ」
ある人が、体操で国体に出場するような選手を幾人も育てた監督に「のびる子に共通した性格というものがありますか」と質問した。すると、「それは素直な子です」という返事が返ってきたという。監督の指導にいちいち反発するような子は強くならないというのである。人には一人か二人、自分を素直にさせてくれる人がいる。その人こそ、自分の「すぐれた監督」なのかもしれない。
(†心のデボーション02722)
† 心のデボーション 02723
「嘲笑者を責むることなかれ 恐くは彼なんぢを惡まん 智慧ある者をせめよ 彼なんぢを愛せん」 箴言9:8 明治元訳聖書
「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。」 口語訳聖書
「論じる」
「責める」と訳されたヘブライ語 יכח は「論じる、論じ合う」の意味である。嘲る者と論じ合うな。論じ合うなら「知恵ある者」とせよと箴言は教えるのである。そうすればよき友を得るだろう。(詩篇1:1)
(†心のデボーション02723)
† 心のデボーション 02724
「即ち正月の一日にバビロンを出たちて五月の一日にヱルサレムに至る 其神のよき手これが上にありしに因てなり」 エズラ7:9 明治元訳聖書
「すなわち正月の一日にバビロンを出立して、五月一日にエルサレムに着いた。その神の恵みの手が彼の上にあったからである。」 口語訳聖書
「そこにある恵み」
メダカはエサの気配を感じると、サッと水面に集まる。よく見ると、群れが水面に浮いてエサをあさっている間、きまって、水底をウロウロしているメダカもいる。群れの中を適当にただよう、ただ、そのやり方が苦手なのかもしれない。しかし、それはそれでよい。やがて、水底の沈んでくるエサのおこぼれが意外に多いのを彼はちゃんと知っているからだ。適当にただようやり方など無理におぼえる必要はないのだが…。
(†心のデボーション02724)
† 心のデボーション 02725
「我パロの心を剛愎にして吾徴と奇跡をエジプトの國に多くせん」 出エジプト7:3 明治元訳聖書
「しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、」 口語訳聖書
「かたくなな心」
パロの致命的な欠点は「心をかたくなにする」にある。「かたくな」のLXXはσκληρυνῶ で「頑固・強情・冷酷」の意味である。神は「心を頑なにする者」を「心頑な」ままにされる。(ロマ9:18)
(†心のデボーション02725)
† 心のデボーション 02726
「日々、心を一つにして弛みなく宮に居り、家にてパンをさき、勸喜と眞心とをもて食事をなし、」 使徒2:46 大正文語訳聖書
「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、」 口語訳聖書
「旨い料理」
古代ギリシャ人は旨い料理を心行くまで楽しんだ。「旨い料理 μενοεικἠς」は「心楽しい、美味な料理」の意味であり、「旨さ」をあらわずもう一つの語「ἐπήρατος」は「愛らしい、魅力的な、心地よい、美しい」の意味である。「旨い料理 μενοεικἠς」が必ずしも「旨い」のではなく、「愛らしい料理 ἐπήρατος」こそが真に「旨い料理」だったようだ。
(†心のデボーション02726)
† 心のデボーション 02727
「直ちに舟と父とを置きて從ふ」 マタイ4:22 大正文語訳聖書
「彼らもただちに舟と父とを残して、イエズスに従った」 フランシスコ会訳聖書
「後に残す(捨てる)」
ペテロは「網と妻」を、アンデレは「網」を、ヤコブとヨハネは「舟と父親と雇い人」を「残して ἀφίημι アふィエーミ 捨てて」イエスに従った。人がイエスに従うとき、「後に残す(捨てる)」ものがそれぞれにある。獲得する為に放置しなければならないものがある。
(†心のデボーション02727)
† 心のデボーション 02728
「ヱホバ己の前に立る者等に告て汚なき衣服を之に脱せよと宣ひまたヨシユアに向ひて觀よ我なんぢの罪を汝の身より取のぞけり汝に美服を衣すべしと宣へり」 ゼカリヤ3:4 明治元訳聖書
「み使は自分の前に立っている者どもに言った、『彼の汚れた衣を脱がせなさい』。またヨシュアに向かって言った、『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう。』」 口語訳聖書
「恥じない乞食」
塩野七生さんによると、昔、ヨーロッパでは物乞いをする人は目の所に穴のあいた黒ずきんをかぶり、足まで包む長い黒衣を着て身分を隠したそうである。いつか立ち直った時、身元が知れて再起の妨げにならないようにとの配慮であった。しかし、それは、一度着たら、脱ぐのが難しい服だったのではないだろうか。せっかくの黒ずきんと黒衣だが、ご辞退申し上げ、素顔をさらして物乞いするという手があってもよい。
(†心のデボーション02728)
† 心のデボーション 02729
「よわき人をかへりみる者はさいはひなり ヱホバ斯るものを禍ひの日にたすけたまはん」 詩篇41:1 明治元訳聖書
「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。」 口語訳聖書
「貧しき者」
「貧しい者 דַּל」は「低い、寄る辺なき人」の意味である。「貧しい者 דַּל」を真に顧みることのできるのは、自らが「貧しい者 דַּל」である。(マタイ5:3 心の貧しい人 οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι (心が決定的に貧しい人)
(†心のデボーション02729)
† 心のデボーション 02730
「彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき」 ヨハネ1:10 大正文語訳聖書
「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 口語訳聖書
「再び尋ねる」
The Word was in the world, and though God made the world through him, yet the world did not recognize him.(Today’s English Version)
「the world did not recognize him. 世は彼を知らずにいた」。Recognize の語源はラテン語「re 再び + cognosco 知る、認識する」から来ている。認識は、語られた御言葉を再び尋ねることに始まる。
(†心のデボーション02730)
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