† 心のデボーション 02701
「もろもろの人をてらす眞の光ありて、世にきたれり。」 ヨハネ1:9 大正文語訳聖書
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」 口語訳聖書
「こぼれ出た光」
イエスは「あなたがたは世の光です」と教えられた。(マタイ5:14) ユダヤの町は小高い丘の上に建てられた。それぞれの家は、夜は土皿の油を灯してあかりとした。丘の上の家の隙間から微かな光がこぼれてそこに家があることが知れた。「世の光」とはこの微かなこぼれ出た光である。自分を照らす光が外にこぼれでて世を照らすのである。
(†心のデボーション02701)
† 心のデボーション 02702
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」 マタイ6:34 大正文語訳聖書
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 新共同訳聖書
「思わず笑うな」
ある人の小学生の娘が教会学校から帰って、「明日のことを思わず笑うなと教わってきた」といったそうである。「あすのことを思いわずらうな」の間違いだった。「思いわずらい」は、明日のことをくよくよ考えることだけではない。明日はきっとうまくいくと、都合の悪いことは一切考えないのも「思いわずらい」である。とすれば「明日のことを思わず笑うな」は全くの間違いともいえないかもしれない。
(†心のデボーション02702)
† 心のデボーション 02703
「智者のくちびるは知識をひろむ 愚なる者の心は定りなし」 箴言15:7 明治元訳聖書
「知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、愚かな者の心はそうでない。」 口語訳聖書
「知恵」
知恵は知恵ある者のくちびるによってひろめられる。知恵がひろまらないのは、愚かな者の心が語るからである。知恵があっても心が愚かな者による知恵は信用ができない。
(†心のデボーション02703)
† 心のデボーション 02704
「朋友はいづれの時にも愛す 兄弟は危難の時のために生る」 箴言17:17 明治元訳聖書
「友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。」 口語訳聖書
「晴天の友」
英語に「晴天の友 Fine Weather Friends」という表現がある。空が青ければ近寄ってくるが、曇天の日には離れていく、いざという時に役に立たない友のことである。
(†心のデボーション02704)
† 心のデボーション 02705
「汝神の前にありては軽々し口を開くなかれ 心を攝めて妄に言をいだすなかれ 其は神は天にいまし汝は地にをればなり 然ば汝の言詞を少からしめよ」 伝道5:2 明治元訳聖書
「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。」 口語訳聖書
「心あせるとき」
神の前では、じっと待つことが何よりも大切である。心あせってことばを出すと、不平とも不満ともなる。その耳は何も聞こえない。神の前では、ことばを出来るだけ少なくすべきかもしれない。すると、思うようにいかない、そのことの中に恵みと導きが含まれているのがわかる。何をしたらいいかは、おのずとわかる。
(†心のデボーション02705)
† 心のデボーション 02706
「ヱホバその僕なる預言者を汝らに遣し頻に遣したまひけれども汝らはきかず又きかんとて耳を傾けざりき」 エレミヤ25:4 明治元訳聖書
「主はたゆまず、そのしもべである預言者を、あなたがたにつかわされたが、あなたがたは聞かずまた耳を傾けて聞こうともしなかった。」 口語訳聖書
「預言者エレミヤ」
神はユダの民に預言者エレミヤを遣わされ、エレミヤは「絶えず、しきりに語り続けた」(エレミヤ25:3 新改訳聖書)が、民は聞かなかった。人には神の遣わされたエレミヤが、「絶えず、しきりに語り続け」る。「聞く耳」のある者は聞くことができる。
(†心のデボーション02706)
† 心のデボーション 02707
「イエズス此處より進み給ひて、又他に二人の兄弟、即ちゼベデオの子ヤコボと、其兄弟ヨハネとが、父ゼベデオと共に船にて網を補ふを見、之を召し給ひしに」 マタイ4:21 大正文語訳聖書
「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった」 新共同訳聖書
「備える」
ヤコブとヨハネは父ゼベダイと舟の中で網の手入れをしていた。「手入れする καταρτίζω カタルティゾー 」は「備える」の意味があり、彼らは次の漁に備えをしているところだった。
イエスは人が次の業の為に備えている所に入ってこられ、声を掛けられる。そのときは備えをそのままにイエスに従うのである。
(†心のデボーション02707)
† 心のデボーション 02708
「又もろもろの心勞を神に委ねよ、神なんぢらの爲に慮ぱかり給へばなり。」 Ⅰペテロ5:7 大正文語訳聖書
「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」 口語訳聖書
「神にゆだねる」
「自分には力がない。これ以上続けていたら人に迷惑をかける」と自分を責めるようでなら、頑張りすぎかもしれない。「この人を助けられるのは自分しかない」と考えていないだろうか? 助けを求められれば、何とかしてあげたくなる。しかし、その思いも過ぎれば、自分を見失わせる。思い煩いを神にゆだねるとは、助けることにも限界があると知った上で添い続けることではないか。
(†心のデボーション02708)
† 心のデボーション 02709
「イエズス此處より進み給ひて、又他に二人の兄弟、即ちゼベデオの子ヤコボと、其兄弟ヨハネとが、父ゼベデオと共に船にて網を補ふを見、之を召し給ひしに」 マタイ4:21 大正文語訳聖書
「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった」 新共同訳聖書
「雷の子」
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟は二人共に「気性の烈しい人」だったようで、イエスは二人に「ボアネルゲス 雷の子」という名をつけられている。(マルコ3:17)
先輩の牧師はヤコブとヨハネの激しい性格について「ガラガラ、ピシャ」の人、と表現した。
「気性の烈しい人」もイエスの弟子になれる。ヨハネは晩年に「愛を説く使徒」になった。
(†心のデボーション02709)
† 心のデボーション 02710
「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり」 伝道3:1 明治元訳聖書
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」 口語訳聖書
「生きた墨」
墨は摺った直後を「生きた墨」、摺ってから時間がたったのを「死んだ墨」というそうである。「死んだ墨」で書くと、墨が滲んで書をだめにしてしまう。墨は煤と膠を練り合わせて作る。摺り下ろしたあと、時間がたつと膠の力が弱くなるからである。墨は力をこめて摺るとやはり「死んだ墨」になる。墨には墨の時がある。
(†心のデボーション02710)
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