心のデボーション270

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

† 心のデボーション 02691

「この四つの活物おのおの六つの翼あり、翼の内も外も數々の目にて滿ちたり、日も夜も絶間なく言ふ、 『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 昔いまし、今いまし、のち來りたまふ 主たる全能の神』」 黙示4:8 大正文語訳聖書

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」 口語訳聖書

 「前に置かれたもの」

へブル語で「過去」は「前に置かれたもの」、「未来」は「後ろに置くもの」を意味する。後ろの風景を見ながら進むボートのように、未来は過去を前に見据えることによって開ける。過去は正しく見つめることをしない限りみじめで貧しいものである。過去が貧しいのではなく、それを見据える力が未熟なのだ。未来を豊かにしたければ、過去を成熟させることである。

(†心のデボーション02691)

† 心のデボーション 02692

「ねがはくは惡きものの曲事をたちて義しきものを堅くしたまへ ただしき神は人のこころと腎とをさぐり知たまふ」 詩篇7:9 明治元訳聖書

「どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。」 口語訳聖書

 「贋作」

「ピカソはだれよりもうまくピカソをまねることができる」とピカソがいった、と鷲田清一さんが書いている。(鷲田清一 『じぶんこの不思議な存在』より) ピカソの贋作があまりに多く、ある画商がピカソに真贋を依頼するとピカソが本物を贋作に選んだことに答えてピカソがそう言ったのだという。自分が書いたかもしれないが自分は本物とは認めないという意味なのか。私は時々、自分というものが贋作ではないかと思うことがある。

(†心のデボーション02692)

† 心のデボーション 02693

「ヱホバ言たまはく我わが諸の善を汝の前に通らしめヱホバの名を汝の前に宣ん我は惠んとする者を惠み憐まんとする者を憐むなり」 出エジプト33:19  明治元訳聖書

「主は言われた、『わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ』。」 口語訳聖書

 「あらゆる善を」

神は「あらゆる善」を人の前に通らせ、明示される。人は神の恵みとあわれみのうちに見ることのできる善である。何が善であるかは神の業に明らかである。

(†心のデボーション02693)

† 心のデボーション 02694

「義者を惡き道に惑す者はみづから自己の阱に陷らん されど質直なる者は福祉をつぐべし」 箴言28:10 明治元訳聖書

「正しい者を悪い道に惑わす者は、みずから自分の穴に陥る、しかし誠実な人は幸福を継ぐ。」 口語訳聖書

 「潔白な人のしあわせ」

リスは秋になると地面に穴を掘り、集めたナッツを隠す。カナダにいた頃、このあたりと見当をつけて、リスのナッツを横取りするのは楽しいゲームであった。そのことを日本の子どもに話したところ「リスのナッツを横取りするなんて許せない!」と厳しく抗議されてしまった。確かにそうなのだが、リスは食料庫を他にも沢山もっていて、あまり困らないのである。ほんの少しをあざむいたり、あざむかれてあげるのも「潔白なひとたちのしあわせ」にふくまれてもよいのではないか?

(†心のデボーション02694)

† 心のデボーション 02695

「我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」 ガラテヤ2:20 大正文語訳聖書

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」 口語訳聖書

 「キリストの事業」

「我が為すのではない、キリストが我に在りて為し給ふのである、故に我が事業ではない、キリストの事業である」(内村鑑三『内村鑑三随筆集』より) 内にいます主イエスが働かれる故に私も働くのである。

(†心のデボーション02695)

† 心のデボーション 02696

「汝らは價をもて買はれたる者なり、然らばその身をもて神の榮光を顯せ。」 Ⅰコリント6:20  大正文語訳聖書

「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」 口語訳聖書

 「うだつ」

「うだつ」が上がるとか、上がらないという。「うだつ」は商家の袖壁に作られた「卯」の形をしたもので、富と格式の証しであった。一旦上げてしまうと、下げるわけにもいかない、厄介なものでもある。屋根に掲げ続けるかつての栄光のしるしはどこか寂しい。

(†心のデボーション02696)

† 心のデボーション 02697

「かれら直ちに網をすてて從ふ」 マタイ4:20 大正文語訳聖書

「すると、二人はただちに網をそのままにして、イエズスに従った」 フランシスコ会訳聖書

 「失うことに備える」

新しいものを手に入れるとき、失うものがある。得ることに生きる人は、失うことに備えるべきだ。だが、新しく得るものの豊かさに、喪失の悲しみはさして深くない。

(†心のデボーション02697)

† 心のデボーション 02698

「われらの家の棟梁は香柏 その垂木は松の木なり」 雅歌1:17 明治元訳聖書

「わたしたちの家の梁は香柏、そのたるきはいとすぎです。」 口語訳聖書

 「祈りの家」

「鬱蒼として茂る大樹の森も我等の部屋である」(藤井武『信仰生活』より) 祈りの部屋は自然の奥まったところにもある。香柏や松のよき香りに満ちている。

(†心のデボーション02698)

† 心のデボーション 02699

「而して三度身を伸して其子の上に伏しヱホバに呼はりて言ふわが神ヱホバ願くは此子の魂を中に歸しめたまへと」 Ⅰ列王17:21 明治元訳聖書

「そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、『わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください』。」 口語訳聖書

 「卵二つ分のいのち」

犬養道子さんがサラエボで見た「卵二つ分、二百五十グラム」で生まれた赤ちゃんのお話しをしている。母親は兵士に強姦されてみごもり、食料もなく逃げまわり、砲弾で半分くずれた病院でこの子を生みながら死んだ。看護婦は育つ可能性の全くないこの子をせめて人間らしく死なせるために一分間だけ酸素吸入の中に入れた。そして、この子に名前をつけて、その名前を呼びながら死なせたのである。

(†心のデボーション02699)

† 心のデボーション 02700

「なんぢら既に主の仁慈あることを味ひ知りたらんには、然すべきなり。」 Ⅰペテロ2:3 大正文語訳聖書

「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。」 口語訳聖書

 「恵みの味」

「恵み」は知識ではわからない。「味わい知る」のである。「味わう γεύομαι」は「食べる、味をみる」から来ており、「経験する」の意味に用いられる。「恵みの味」はいかがなものだろうか?

(†心のデボーション02700)

コメント