心のデボーション267

デボーション1
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† 心のデボーション 02661

「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか。」 マタイ7:3 大正文語訳聖書

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」 口語訳聖書

 「目の中の梁」

子どもの問題で悩んでいる親は、自分の人生にも未解決の問題を抱えていることが少なくない。子どもの「目の中のちり」に心を奪われて、自分の目に「梁」のあることに気づかない。親が未解決にしてきた自分の問題と向き合うことをしていると、子どもの問題が自然に解決することもある。自分の目から梁を除くと「はっきり見える」ようになって、子どもの痛みが見えるようになるのかもしれない。

(†心のデボーション02661)

† 心のデボーション 02662

「彼は生命の途に入らず 其徑はさだかならねども自ら之を知ざるなり」 箴言5:6 明治元訳聖書

「彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。」 口語訳聖書

 「偽りの舌」

「いのちの道に心をとめない」教えに心する必要がある。それは「他国の女の蜜のしたたる舌」(箴言5:3)であり、まことに滑らかであるが、その終わりは「苦よもぎ」のように苦い。(箴言5:3,4) そして、その道が黄泉に通じていることを彼ら自身が知らない。

(†心のデボーション02662)

† 心のデボーション 02663

「いつはる者はあらそひを起し つけぐちする者は朋友を離れしむ」 箴言16:28 明治元訳聖書

「偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。」 口語訳聖書

 「陰口」

「偽る者 תּה‏ְפּוּכ‏ָה」は「ねじれ者」のことである。「告げ口する者 רגן」は「陰口をきく者」である。争いの元になる人たちで、親しむことは危険である。

新改訳聖書

ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。

(†心のデボーション02663)

† 心のデボーション 02664

「我を失ふものは自己の生命を害ふ すべて我を惡むものは死を愛するなり」 箴言8:36 明治元訳聖書

「わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」 口語訳聖書

 「心の中心軸」

バレーでスピン(回転)する人は、コマのように回転しながら、どこか一点を見続けるそうである。こうすると、回転の力が軸を支える力に変わり、倒れないという。ことばにも感情にも調和のある人は、心の中心軸に「神」を見ている。その一点を見続けることによって、どれほど激しい回転にも倒れないばかりか、変化する回転の力を、自分を支えるに変え、安定するのである。

(†心のデボーション02664)

† 心のデボーション 02665

「汝らも備へをれ。人の子は思はぬ時に來ればなり」 ルカ12:40 大正文語訳聖書

「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」 口語訳聖書)

 「思いがけない時に」

「思いがけない時 ὥρᾳ οὐ δοκεῖτε」に主が来られる。「思いがけない」と訳されるギリシャ語δοκέω  ドケオーには「期待する、望む、欲する」の意味がある。期待しない、望まな、欲しないような時に、主との出会いがある。

(†心のデボーション02665)

† 心のデボーション 02666

「われ長寿をもてかれを足はしめ且わが救をしめさん」 詩篇91:16 明治元訳聖書

「わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。」 口語訳聖書

 「高き齢」

「主をおそるることは知恵の根なり。その枝は高き齢なり。」(ベン=シラの知恵1:20 日本聖公会訳)

神は「長寿をもって救いを彼に示す」と言われる。長寿の目的は長生きにあるのではなく、神の恵みをあますところなく経験することにある。主をおそれる知恵の伸ばす枝はそのような高き齢(よわい)である。

(†心のデボーション02666)

† 心のデボーション 02667

「かれら直ちに網をすてて從ふ」 マタイ4:20 大正文語訳聖書

「すると、二人はただちに網をそのままにして、イエズスに従った」 フランシスコ会訳聖書

 「網を捨てて従う」

ペテロとアンデレが「網を捨てて、従う」ことが出来たのは、彼らが日常の中で「わたしについて来なさい」と呼びかける声を聞き逃さない人であったからである。直ちに行動する姿勢をもって生きる人々だった。

(†心のデボーション02667)

† 心のデボーション 02668

「かれら汝らを付さば、如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。」 マタイ10:19 大正文語訳聖書

「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。」 口語訳聖書

 「言うべきこと」

主イエスは弟子たちを遣わされるにあたり、「何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられる」(マタイ10:19 口語訳聖書)と言われた。言うべきことはその都度、神が言葉を口に入れられる。

「そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた」(エレミヤ1:9 口語訳聖書」

(†心のデボーション02668)

† 心のデボーション 02669

「驕傲は滅亡にさきだち誇る心は傾跌にさきだつ 」 箴言16:18 明治元訳聖書

「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。」 口語訳聖書

 「嫌な奴」

自分を「嫌な奴」と思うのはプライドが高すぎるからかもしれない。本当に嫌なのは、何でもないことにも嫌をいう、謙遜を装う高慢である。自分の嫌なところは自分にもわからないものだ。謙遜な人は自分を愛しむ。自分にも隠れた嫌なところがある、そう知った上で、まるごとの自分を愛する。嫌な奴と思ったけれど、それほどでもないなあと思えたら、それでよい。

(†心のデボーション02669)

† 心のデボーション 02670

「なんぢ目を覺し、殆ど死なんとする殘のものを堅うせよ、」 黙示3:2

「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」 口語訳聖書

 「力づけなさい」

「殆ど死なんとする殘のもの」を「堅うせよ(力づけなさい)」。「力づける στηρίζω」は「非の打ち所がないものにする」の意味である。主は死にかけているほどに弱った者のために祈り給う。それゆえに、立ち直った者は倒れんとしている兄弟を力づける(非の打ち所がないものにする)ことができる。

(†心のデボーション02670)

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