心のデボーション265

デボーション1
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† 心のデボーション 02641

「彼等(かれら)やがて網を棄(すて)てイエスに從(したが)ふ」 マタイ4:20 明治元訳聖書

「彼卽棄網從之」 漢訳聖書

 「從」

「從」は、「从」二つの「人」からなり、前の人に後ろの人がしがたう形を示す。「止 あし」+「彳 いく」で「歩く」の意味。前の人の後を後ろの人が歩いて行くこと。

昔、瞽女たちは雪の中を、前の人の肩に手をかけたり、杖を握って一列になって旅したという。私たちはイエスの肩に手をおいて、旅をする。

(†心のデボーション02641)

† 心のデボーション 02642

「彼等を男女に造りたまへり彼等の創造られし日に神彼等を祝してかれらの名をアダムと名けたまへり」 創世5:2 明治元訳聖書

「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。」 口語訳聖書

 「私という物語」

R.D.レインはアイデンティティを「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる物語である」と言う。「自分とは何か」は人や社会との関係の中で紡がれる物語であり、不安定な社会の中では「物語」の問い直しが必要となる。人間の根源的な「物語」は神が創造された人間を「その名をアダムと呼ばれた」(創世記5:2 新改訳聖書)から始まるのである。

(†心のデボーション02642)

† 心のデボーション 02643

「人もし受くべからざる苦難を受け、神を認むるに因りて憂に堪ふる事をせば、これ譽むべきなり。」 Ⅰペテロ2:19 大正文語訳聖書

「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。」 口語訳聖書

 「不当な苦しみ」

もし、「不当な苦しみ」を受けるなら、「神を仰いで」その苦痛を耐え忍べ。「神を仰ぐ συνείδησις」は「神を意識するがゆえに」の意味である。神を意識するがゆえに、人は不当な苦しみに耐えることができる。

(†心のデボーション02643)

† 心のデボーション 02644

「近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ、傷を包みて己が畜にのせ、旅舍に連れゆきて介抱し」 ルカ10:34 大正文語訳聖書

「近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」 口語訳聖書

 「トラウマ」

トラウマは大きな打撃を受けてできる心の傷である。この人はエリコに下る途中、強盗に教われてひどく殴られる。しかし、彼の心を深く傷つけたのは強盗ではなく、かかわりを避けて足早にその場を去った祭司やパリサイ人ではなかったか。彼のトラウマを癒したのはサマリヤ人だった。トラウマを癒すのはただ一つ、傷ついた人の「隣人」になることである。

(†心のデボーション02644)

† 心のデボーション 02645

「おのれの富を恃むものは仆れん されど義者は樹の靑葉のごとくさかえん」 箴言11:28 明治元訳聖書

「自分の富を頼む者は衰える、正しい者は木の青葉のように栄える。」 口語訳聖書

 「木の若葉のように」

「正しい者は木の青葉のように栄える。」(口語訳聖書)を、新改訳聖書は「正しい者は若葉のように芽を出す」と訳す。英語聖書には「but the righteous will prosper like the leaves of summer.」(TEV)との訳し、ヘブライ語聖書の「神を頼む者は新緑の若葉のように芽吹き、夏の葉のように繁栄し、花を咲かせる。

(†心のデボーション02645)

† 心のデボーション 02646

「禍害ある者は誰ぞ 憂愁ある者は誰ぞ 爭端をなす者は誰ぞ 煩慮ある者は誰ぞ 故なくして傷をうくる者は誰ぞ 赤目ある者は誰ぞ」 箴言23:29 明治元訳聖書

「災ある者はだれか、憂いある者はだれか、争いをする者はだれか、煩いある者はだれか、ゆえなく傷をうける者はだれか、赤い目をしている者はだれか。」 口語訳聖書

 「赤い目」

箴言は「赤い目をしている者はだれか」(口語訳聖書)という。「赤い目をしている者」は「血走った目」(新改訳聖書)、「濁った目」(新共同訳聖書)などとも訳される。濁って鈍感にになった目である。そのような目つきになっていないか、時々鏡を見るとよい。

(†心のデボーション02646)

† 心のデボーション 02647

「これに言ひたまふ『我に從ひきたれ、さらば汝らを人を漁る者となさん』」 マタイ4:19 大正文語訳聖書

「イエズスはその二人に「わたしについて来なさい。あなたたちを、人をすなどる者にしよう」と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書

 「人を漁る者」

2014年10月8日、世界初の青色発光ダイオード(青色LED)の開発に成功した名城大学赤崎勇教授、カリフォルニアのサンタバーバラ校中村修二教授とともにノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学天野 浩教授はインタビューで「工学部とは人と人を結ぶ学問と教えられてきた」と語った。イエスの「人を漁る者」は、あらゆる学問がそうであるように「人と人を結ぶ者」への招きである。

(†心のデボーション02647)

† 心のデボーション 02648

「主人いふ『宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜に入れ』」 マタイ25:21 大正文語訳聖書

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」 口語訳聖書

 「主人の勸喜に入れ」

良い忠実な僕に主人は「汝の主人の勸喜に入れ εἴσελθε εἰς τὴν χαρὰν τοῦ κυρίου σου.」(大正文語訳聖書)という。「中に 」は「~の中へ、~へ、~まで、~に向かって、~を目標にして、の間に」を意味する。神の喜びの中に入りゆく。

(†心のデボーション02648)

† 心のデボーション 02649

「その行爲をおこたる者は滅すものの兄弟なり」 箴言18:9 明治元訳聖書

「その仕事を怠る者は、滅ぼす者の兄弟である。」 口語訳聖書

 「馬小屋」

ある人生の師がこんなお話しをしている。男が馬小屋で働いていた。ある日、男は「今のままではダメだ」と気づいた。そこで、男は何をしたか? 馬小屋の仕事に戻ったのさ。

「馬小屋」とは自分の場である。自分の場である馬小屋にこそ戻るべきなのだ。しかし、その仕事が「自分」に向かうことにならないのなら、その時は馬小屋の外に出ねばなるまい。馬小屋はどこにでもあり、どこも馬小屋である。

(†心のデボーション02649)

† 心のデボーション 02650

「噫なんぢら禍なるかな僞善なる學者とパリサイの人よ蓋なんぢら嫠婦の家を呑いつはりて長き祈をなす之に由て爾曹最も重き審判を受べければ也 」 マタイ23:14 明治元訳聖書

「 律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だから、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 聖書協会共同訳聖書

 「かっこつけ」

パリサイ人たちは「見せかけの長い祈り」を捧げることを好んだ。「見せかけ πρόφασις」は「みえ、かっこつけ、見せかけ」の意味である。人は「かっこつけ」からも信仰に入る。だが、その信仰はすぐに分かる。根がないからである。

(†心のデボーション02650)

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