心のデボーション263

デボーション1
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† 心のデボーション 02621

「神より遣されたる人いでたり、その名をヨハネといふ」 ヨハネ1:6 大正文語訳聖書

「一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。」 聖書協会共同訳聖書

 「一人の人の現われ」

「一人の人が現れ ἐγένετο ἄνθρωπος」た。「現れる γίνομαι ギノマイ」には「事がおこる」の意味がふくまれている。「一人の人の現われ」は「一つの事の始まり」である。「一つの事の始まり」は常に神によってもたらされるのである。

(†心のデボーション02621)

† 心のデボーション 02622

「我らは神の中に生き、動きまた在るなり。汝らの詩人の中の或者どもも『我らは又その裔なり』と云へる如し。」 使徒17:28 大正文語訳聖書

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』」 口語訳聖書

 「存在」

存在感というものはどこか曖昧なもので出来ているらしい。いつでも確実な自分でいようとするよりも、不確実な部分もあって自分なのだと理解した方がよいかもしれない。

(†心のデボーション02622)

† 心のデボーション 02623

「彼は光にあらず、光に就きて證せん爲に來れるなり。」 ヨハネ1:8 大正文語訳聖書

「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」 口語訳聖書

 「偶像化」

光について語る者は光ではない。光について語る者は自らが光になろうとする誘惑を退けなければならない。マタイの「あなたがたは、世の光です」(マタイ5:14)は、マラキ4:2「あながたには、義の太陽がのぼる」(マラキ4:2)において理解すべき御言葉である。キリスト者は、あたかも、月のように、「義の太陽」の光を受けて世を照らす「世の光」である。人が自らを「光」とするのは、自らを「偽りの神、すなわち偶像」とすることに他ならない。

(†心のデボーション02623)

† 心のデボーション 02624

「さらば悔改に相應しき果を結べ。なんぢら「我らの父にアブラハムあり」と心のうちに言ひ始むな。我なんぢらに告ぐ、神はよく此らの石よりアブラハムの子等を起し得給ふなり。」 ルカ3:8 大正文語訳聖書

「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。」 口語訳聖書

 「悔い改めにふさわしい実」

彼が右といえば私は左という関係がしばらく続く。これはよくないと「悔い改め」て、「君に反抗ばかりしてすまなかった」と詫びると、彼もうちとけてくれた。それから数分後、「お前とはどうもそりがあわない」と喧嘩が始まったという。「悔い改め」が足りなかったのだろうか。それとも、相手が右といえば自分は左という関係が心苦しいだけの、「実のない悔い改め」だったのだろうか。

(†心のデボーション02624)

† 心のデボーション 02625

「然るに神夜の夢にアビメレクに臨みて之に言たまひけるは汝は其召入たる婦人のために死るなるべし彼は夫ある者なればなり」 創世20:3 明治元訳聖書

「ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」 口語訳聖書

 「アビメレクの夢」

夢は人の無意識が睡眠中に活性化され記憶されたものだという。「シンボルの真の探索は暗がりの中で行わねばならぬ。明るさの中でシンボルは生命力を失ってしまう。暗さに耐える人にのみシンボルはその真の姿を開示してくれる」(河合隼雄『無意識の構造』より)

アビメレクの見た夢はアビメレクに罪の危険が迫っていることを告げる神からのメッセージであった。

(†心のデボーション02625)

† 心のデボーション 02626

「かくて再び祈りたれば、天雨を降らし、地その果を生ぜり。」 ヤコブ5:18 大正文語訳聖書

「それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」 口語訳聖書

 「あえのこと」

奥能登地方には2月9日(旧暦1月5日)を「餐の祭り(あえのこと)」という風習がある。主人が田の神を迎えにゆき、入浴させ、饗応したうえで田に送り出す。その年の12月5日には田の神を家に招き、収穫を謝して春を迎えるまで家の中で過ごしてもらうのだという。米作りに神事を見た日本人の感性を失ってはなるまい。

(†心のデボーション02626)

† 心のデボーション 02627

「これに言ひたまふ『我に從ひきたれ、さらば汝らを人を漁る者となさん』」 マタイ4:19 大正文語訳聖書

「イエズスはその二人に「わたしについて来なさい。あなたたちを、人をすなどる者にしよう」と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書

 「宣教」

「宣教」を「投網をなげて人を捕らえる」と受け取るなら、必ず失敗する。人は「漁られる」ことを何よりも嫌うし、「網にかけて漁れる」ようなものではない。

ペトロは「漁り人」として海に静かに深く網を下ろして魚をとることを生業としてきた。イエスはペトロに「これからは人間に深く網を下ろして、人間を漁れ」と言われたのである。「人間をとる漁師」とは、自己という海に深く網を下ろして「私」をすなどる者である。 

(†心のデボーション02627)

† 心のデボーション 02628

「われ與へられし恩惠によりて汝等おのおのに告ぐ、思ふべき所を超えて自己を高しとすな。神のおのおのに分ち給ひし信仰の量にしたがひ愼みて思ふべし。」 ロマ12:3 大正文語訳聖書

「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。」 口語訳聖書

 「深謀遠慮」

「慎み深く思う σωφρονέω」は「分別のある、思慮深い思考」である。日本語の「慮る(おもんばかる)」は「思いを量る」から「深慮(遠くを慮る)」を意味する。「深慮なければ近憂あり」といわれる。「慎み深い思い」は神の恵みによって各自に分け与えられる。

(†心のデボーション02628)

† 心のデボーション 02629

「また我汝とともにありて凡て汝が往ところにて汝をまもり汝を此地に率返るべし我はわが汝にかたりし事を行ふまで汝をはなれざるなり」 創世28:15 明治元訳聖書

「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」 口語訳聖書

 「忘れて生きる」

年をとると、人は誰でも物忘れの名人になる。ある年老いたクエーカー教徒は、何か一つを忘れるたびに、「神さまが持って行かれたのだ」と語る。そうやって、一つ一つを天に移していけば、老いた日々は穏やかなものになる。私がすべてを忘れる日が来たとしても、主は私を忘れることはない。忘れて生きる恵みであろう。

(†心のデボーション02629)

† 心のデボーション 02630

「なんぢ眞實をこころの衷にまでのぞみ わが隠れたるところに智慧をしらしめ給はん」 詩篇51:6 明治元訳聖書

「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。」 口語訳聖書

 「真実」

自分には自分の、人には人の「目の向け方」がある。自分とは違うそれにも注意を払う必要がある。「心の隠れたところ」にも神は真実を求められる。

(†心のデボーション02630)

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