心のデボーション262

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† 心のデボーション 02611

「神より遣されたる人いでたり、その名をヨハネといふ」 ヨハネ1:6 大正文語訳聖書

「一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。」 聖書協会共同訳聖書

 「その名はヨハネ」

神は地に「一人の人」を遣わされ、その「名をヨハネと言った」。神が派遣されるのは、ヨハネという名を持つ存在する「一人の人」である。神は名をもって人を呼び出され、業を行わせ給う。

(†心のデボーション02611)

† 心のデボーション 02612

「われはいにしへの日をおもひいで 汝のおこなひたまひし一切のことを考へ なんぢの手のみわざをおもふ」 詩篇143:5 明治元訳聖書

「わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします」 新共同訳聖書

 「熟慮」

「熟慮なしには、何事も行うな。/そうすれば、お前が行ったことを/後で悔やまずに済む。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵32:19 新共同訳聖書)

過去におきた出来を思うのは、そこに「主の御手の業」を見るためである。熟慮することなく何事も行わないようにしたい。

(†心のデボーション02612)

† 心のデボーション 02613

「心を同うし相集まりてヨシユアおよびイスラエルと戰はんとす」 ヨシュア9:3 明治元訳聖書

「心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。」 口語訳聖書

 「謀略」

ヨルダンの低地の住民は侵攻してくイスラエルに対して「心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おう」とする。彼らのとった戦術は計略を巡らせてイスラエルと和議を結ぶことだった。戦いは必ずしも剣によらない、謀略も一つの戦いである。策略は成功し、低地の民はイスラエルの中に居住権を獲得し、これが長く異なる神をイスラエルにもたらすのである。

(†心のデボーション02613)

† 心のデボーション 02614

「目に觀る事物は心のさまよひ歩くに愈るなり 是また空にして風を捕ふるがごとし」 伝道6:9 明治元訳聖書

「目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。

 「苛立ち」

苛立っても仕方のないことはわかっている。しかし、つまらないことでかっかとしてしまう。苛立ちには、深く静かに呼吸するのが役に立つ。思うようにいかない状況を自分の胸に深く吸い込み、そして静かに吐く。「苛立ちを胸にととめる愚かな人」とは、苛立ちを自分の内にとどめ、それを増殖してしまう人だと思う。苛立っているときは、この妙案をすっかり忘れているのである。

(†心のデボーション02614)

† 心のデボーション 02615

「その御言を守る者は誠に神の愛、その衷に全うせらる。之によりて我ら彼に在ることを悟る。」 Ⅰヨハネ2:5 大正文語訳聖書

「しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。」 口語訳聖書

 「神の愛」

神の愛は「真にまっとうされる」。「まっとうする τελειόω」は「終える、仕上げる、完成する」の意味である。

愛はすべてを「終え、仕上げ、完成」する。神の愛の「τελειόω」を妨げるものはない。

(†心のデボーション02615)

† 心のデボーション 02616

「然どなんぢらヱホバを棄わがきよき山をわすれ 机をガド(禍福の神)にそなへ雜合せたる酒をもりてメニ(運命の神)にささぐる者よ」 イザヤ65:11 明治元訳聖書

「しかし、あなたがた/主を捨て、私の聖なる山を忘れた者/幸運の神のために食卓を整え/運命の神のために混ぜ合わせたぶどう酒を/満たす者よ。」 新共同訳聖書

 「有卦に入る」

幸運が続くことを「有卦に入る」という。「有卦」は幸運が七年間続くことを意味する。逆に不運が続くのが「無卦」であり、こちらは5年続くのだという。幸運は幸運を呼び、不運は不運を呼ぶ。しかし、有と無を卦で占うのはむなしい。それは「主を捨てて、幸運の神のために食卓を整え/運命の神のために混ぜ合わせたぶどう酒を/満たす」ことだ。

(†心のデボーション02616)

† 心のデボーション 02617

「これに言ひたまふ『我に從ひきたれ、さらば汝らを人を漁る者となさん』」 マタイ4:19 大正文語訳聖書

「イエズスはその二人に「わたしについて来なさい。あなたたちを、人をすなどる者にしよう」と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書

 「イミタチオ・クリスチ」

中世以来、トマス・アケンピスの『イミタチオ・クリスチ De imitatione Christi』は、日本でも慶長1 (1596) 

年天草のセミナリオからキリシタン版『こんてむつすむんぢ』として刊行され、同 15年 京都原田アントニヨ印刷所から日本字による抄訳本を刊行され、以来『キリストに倣いて』『キリストのまねびなど、十種類以上の訳が刊行されている。

ラテン語imitatione イミタチオは、英語imitation イミテーションで「模倣」である。「學」は師が知恵を授け、弟子は両方の手でそれを受け取ることを意味する。「学び」は「まねび」である。イエスに従う道は、キリストの「まねび」である。

(†心のデボーション02617)

† 心のデボーション 02618

「その相爭ふ二人の者ヱホバの前に至り當時の祭司と士師の前に立べし」申命記19:17 明治元訳聖書

「その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。」 口語訳聖書

 「正しい裁き」

不正な証言によって訴えられ、争う二人は「主の前にゆき」、その時の祭司と裁判人の前で裁きを受けなければならなかった。祭司と裁判人は偽りの証言をよく調べ、悪を取り除かなければならなかった。神は訴訟者、証人だけでなく、祭司と裁判人をも裁かれるのである。

(†心のデボーション02618)

† 心のデボーション 02619

「イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顯れん爲なり。』 ヨハネ9:3 大正文語訳聖書

「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」 口語訳聖書

 「無頓着」

弱さを克服する一つの方法は無頓着であろう。弱さを問題とも思わず、意にも介さないことだ。しかし、難しいのは弱さを知った上で無頓着になれるか、ということである。無関心からくる無頓着ほど人を傷つけるものはない。すべてを知った上で弱さに無頓着になるには、それを「神のわざの現われ」と見るしかない。その転換こそが「神のわざ」である。

(†心のデボーション02619)

† 心のデボーション 02620

「金もあり眞珠も多くあれど貴き器は知識のくちびるなり」 箴言20:15 明治元訳聖書

「金もあり、価の高い宝石も多くあるが、尊い器は知識のくちびるである。」 口語訳聖書

 「知識のくちびる」

知識を蓄えることは金や値たかき真珠を手に入れるよりも尊い。しかし、さらに尊いのはそれを語る唇である。知識は真に理解されなければことばにすることが出来ないからである。

(†心のデボーション02620)

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