† 心のデボーション 02591
「御使、處女の許にきたりて言ふ『めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと偕に在せり』」 ルカ1:28 明治元訳聖書
「御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』」。口語訳聖書
「とらわれ」
人は何らかの「奇妙な儀式」をもっているものである。何かを始めるのに、その儀式が必要なのだ。しかし、それが強迫的になると苦しい。なぜそうしなければならないのかを問うことはあまり意味がない。とらわれはそれを消すよりも、それと共に生きたらよいのではないか。ただ、そんとき、とらわれの苦しみをわかってくれる人が傍にいると、少し気持ちが軽くなる。
(†心のデボーション02591)
† 心のデボーション 02592
「されど眞の禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでに來れり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。」 ヨハネ4:23 大正文語訳聖書
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」 口語訳聖書
「霊とまことの礼拝」
イエスはヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女に、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。」(ヨハネ4:23 口語訳聖書)と言われた。「礼拝 προσκυνέω プロスクゆネオー」は「霊とまこと」をもって捧げられ、神はそのような礼拝を求められるのである。そこでは人間の霊とまことが問われ、「霊とまこと」は神への礼拝によってあらわされ、人に来るのである。
(†心のデボーション02592)
† 心のデボーション 02593
「かくて、ガリラヤの海邊をあゆみて、二人の兄弟ペテロといふシモンとその兄弟アンデレとが、海に網うちをるを見給ふ、かれらは漁人なり」 マタイ4:18 大正文語訳聖書
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」 新共同訳聖書
「シモン」
「シモン Σίμων シモーン」はヘブル語で「聴く」の意味。自分に語りかけるイエスに「聴く」ことがペトロの生涯に決定的な転機をもたらすことになった。
(†心のデボーション02593)
† 心のデボーション 02594
「この蝗に王あり。底なき所の使にして、名をヘブル語にてアバドンと云ひ、ギリシヤ語にてアポルオンと云ふ。」 黙示9:11 大正文語訳聖書
「彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。」
「アバドン」
第五の御使いがラッパを吹きならすと、一つの星が天から落ちた。その星には底知れぬ穴を開く鍵が与えられ、穴を開くとサソリの力をもつ蝗が地上に現れた。蝗には五カ月の間、人間に害を加える力があり、蝗はヘブライ語でアバドン、ギリシャ語でアポリュオンと呼ばれる底知れぬところの御使いを王とあおぐ。アバドン ᾽Αβαδδώ は「死者の滅びの場所」の王である。
(†心のデボーション02594)
† 心のデボーション 02595
「神のさまざまの恩惠を掌どる善き家司のごとく、各人その受けし賜物をもて互に事へよ。」 Ⅰペテロ4:10 大正文語訳聖書
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」 口語訳聖書
「いみじくも」
物事が非常によくいくことを「いみじくも」と表現する。「いみじくも」の「いみ」は「忌む」から来ており、元来は良いことでも悪しきことでも程度のはなはだしいことを意味した。後に、「まことによく、適切に」のよき面を示すようになった。人は忌避したいことよりも、「たいそうよきもの」だけを期待するものだ。
(†心のデボーション02595)
† 心のデボーション 02596
「我この我にむかひて呟くところの惡き會衆を何時まで赦しおかんや我イスラエルの子孫が我にむかひて呟くところの怨言を聞り」 民数14:27 明治元訳聖書
「わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。わたしはイスラエルの人々が、わたしにむかってつぶやくのを聞いた。」 口語訳聖書
「ネフィリムの影」
イスラエルは約束の地を前にして、ぶどうやいちじくが熟しているのを見ても心が踊らなかった。そこに住む人々が伝説の巨人ネフィリムに見えたからである。実際には、このとき、カナンの住人はイスラエルに「ふるえおののいていた」のである。つぶやく人はありもしないネフィリムの影におびえる。その時、私たちは神を見失っている。その不安が困難に向かう力を奪うのである。
(†心のデボーション02596)
† 心のデボーション 02597
「又わが口より眞理のことばをことごとく除き給ふなかれ われなんぢの審判をのぞみたればなり」 詩篇119:43 明治元訳聖書
「またわたしの口から真理の言葉を/ことごとく除かないでください。わたしの望みはあなたのおきてにあるからです。」 口語訳聖書
「真理のことば」
「自分とは何者か?」と自問したことのない人はいないだろう。この問いがはじまると、それまでの積み重ねてきた人生が急速に色あせて感じられる。だが、それは新しいいのちが生まれ出ようとする陣痛のようなものである。老いてからは希望ですらある。
(†心のデボーション02597)
† 心のデボーション 02598
「そは邪曲なる者はヱホバに惡まるればなり されど義者はその親き者とせらるべし」 箴言3:32 明治元訳聖書
「よこしまな者は主に憎まれるからである、しかし、正しい者は主に信任される。」 口語訳聖書
「正しからざる者と」
「正しい者は主に信任される」。「信任 סוֹד」は「親しくする、交わる、共にはかる」の意味である。神は正しからざる者を、正しき者として、親しまれ、共にはかり、交わりをもたれる。
(†心のデボーション02598)
† 心のデボーション 02599
「誰かその食ふところその歓樂を極むるところに於て我にまさる者あらん」 伝道2:25 明治元訳聖書
「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」 口語訳聖書
「すべては空、されど」
伝道者は人間の営みをつぶさに見、低い声で「すべては空」とつぶやく。最も悲惨なのは、むなしさ行き着いた人生であろう。行き着かないまでも、それから逃げようとして仕事に没頭しようとするのもむなしい。しかし、伝道者は「空」もまた、神から来るという。してみれば、伝道者は労苦の中に幸せと美しさを見たのかもしれない。それは、むなしいと思うことをやり遂げないとわからないのかもしれない。
(†心のデボーション02599)
† 心のデボーション 02600
「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書
「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 口語訳聖書
「自己を注視する」
自分のことを考えずに人のことを注視すればよいのではない。自分が分かるということは人の存在に気づくことによるのである。人のことを注視する人は、それによって自己を注視するのである。
(†心のデボーション02600)
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