心のデボーション259

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† 心のデボーション 02581

「又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねざらんや。」 ルカ15:8 大正文語訳聖書

「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」 口語訳聖書

 「十枚の銀貨」

ユダヤの女性がなくした一枚の銀貨のために、家中を夢中になって探すのには特別の理由がある。女性は結婚すると「銀の鎖に十の銀貨をつけた髪飾り」をつける習慣があり、それをなくしては結婚ができないからである。

女性が結婚のために準備しなければならないのは、「自己」という銀貨である。それを失ってしまっては他の九枚がそろっていても結婚はうまくいかない。見つけるまで念入りに探す必要がある。

(†心のデボーション02581)

† 心のデボーション 02582

「また我に言ひたまふ『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には價なくして生命の水の泉より飮むことを許さん。』」 黙示21:6 大正文語訳聖書

「そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。」 口語訳聖書

 「事の初めと終わり」

神が始められたことは神が終わりとなられる。神は「アルパでありオメガである。初めであり終りである」。ことの初めに立ち給う主は、ことの終わりに立ち給う神である。

(†心のデボーション02582)

† 心のデボーション 02583

「ザカリヤの家に入りてエリサベツに挨拶せしに」 ルカ1:40 大正文語訳聖書

「ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。」 口語訳聖書

 「挨拶」

「挨拶 ἀσπάζομαι   アスパゾマイ」は「 α  強意 + σπάζομαι 抱擁する」からなり、「敬意の抱擁をもって相手を喜ぶ」の意味である。「挨拶」は転じて「歓迎する、喜び迎える」の意味となる。マタイ10:12では「平安を祈る挨拶」をするようにすすめられている。マリヤは祭司ザカリヤの家にはいり、ザカリヤの妻エリサベツと愛の籠った挨拶を交わしたのである。

(†心のデボーション02583)

† 心のデボーション 02584

「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 口語訳聖書

 「相手に目を向ける」

「他人のことを考える σκοπέω スコペオー」は「目を注ぐ、注視する、よく見る」の意味である。フランシスコ会訳聖書は「各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい」と訳す。自分を顧みることのできる人は、相手に目を向ける(心を向ける)ことの出来る人である。

(†心のデボーション02584)

† 心のデボーション 02585

「婦その乳兒をわすれて己がはらの子をあはれまざることあらんや 縦ひかれら忘るることありとも我はなんぢを忘るることなし」 イザヤ49:15 明治元訳聖書

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」 口語訳聖書

 「いまわのきわ」

臨終のときを「いまわのきわ」という。「いまは」は「今を限り」の「今」と極限をあらわす「際」からなる。「いまわのきわ」はどれも忘れ難い。

(†心のデボーション02585)

† 心のデボーション 02586

「汝等竊むべからず偽べからず互に欺くべからず」 レビ19:11 明治元訳聖書
「あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。」 口語訳聖書

 「愛の欺瞞」

本当は愛してはいないのだが、そのことを自覚していないばかりか、ことさらに愛情深くふるまう人がいる。こういう人は相手が接近してくると邪険に扱い、相手が遠のいていくと自分から追いかけたりする。そして、それが欺瞞に過ぎないと指摘されると激しく怒る。義務感や使命感で人を愛することはできない。愛は自ずからなる行為である。偽りの愛は、相手を思いのままにもてあそびながら、本人はそれと気づかない。

(†心のデボーション02586)

† 心のデボーション 02587

「なんぢら早くおき遅くいねて辛苦の糧をくらふはむなしきなり 斯てヱホバその愛しみたまふものに寝をあたへたまふ」 詩篇127:2 明治元訳聖書

「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」 口語訳聖書

 「眠るときにも」

時実利彦氏によると科学的根拠のある断眠の世界レコードは1966年の実験で23歳の画家の青年が記録した101時間8分30秒だという。(時実利彦『人間であること』より) つまり人が眠らすにすごせるのは4日が限度で5日は無理ということである。よき眠りを得ることはことのほか大切である。主は眠るときにも「なくてならぬもの」を与えてくださっている。

(†心のデボーション02587)

† 心のデボーション 02588

「人の世にあるは影にことならず その思ひなやむことはむなしからざるなし その積蓄ふるものはたが手にをさまるをしらず」 詩篇39:6 明治元訳聖書

「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために/騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。」 口語訳聖書

 「浮足」

そわそわして落ち着かないことを「浮足立つ」という。「浮足」はつま先だけが地についている状態で、腰が据わらず、いかにも不安定である。心が騒ぐときには、思いがつま先立ちになっているときで、思考が地についていないと知るだけでも、いくらか落ち着く。

(†心のデボーション02588)

† 心のデボーション 02589

「その途は樂しき途なり その徑すぢは悉く平康し」 箴言3:17 明治元訳聖書

「その道は心地よい道であり、そのすべての通り道は安らかである」 フランシスコ会訳聖書

 「楽しい道」

私は原稿を書くのに鉛筆を使う。鉛筆を削るナイフから電動・手動削り機まで一通りそろっている。鉛筆を削るのはちょっとした休みの時で、その間、思考の流れを妨げないためには、電動は味気なく、ナイフは手間がかかりすぎ、手動がちょうどよい。便利な生活というものはn必ずしも楽しくありません。ちょっと不便なものに楽しさが隠されているようである。

(†心のデボーション02589)

† 心のデボーション 02590

「斯て汝の耳を智慧に傾け汝の心をさとりにむけ」 箴言2:2 明治元訳聖書

「あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、」 口語訳聖書

 「知恵に耳を傾け」

旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:4に「知恵は万物に先立って造られ/思慮ある分別は永遠の昔から存在する。」(新共同訳聖書)とある。すべての物事はそれに先立つ知恵によって始まり、成就する。したがって、まず、耳を傾けるべきは、物事をはじめとなり、完成となる「知恵」に聞くことである。

(†心のデボーション02590)

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