† 心のデボーション 02571
「我等起てベテルにのぼらん彼處にて我わが苦患の日に我に應へわが往ところの途にて我とともに在せし神に壇をきづくべし」 創世35:3 明治元訳聖書
「われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」 口語訳聖書
「私の歩いた道」
やっと歩くことができるようになったアヤちゃんが道に立ち止まって動こうとしない。お母さんにだっこしてほしいのだ。お母さんは数メートル先で、じっと待つ。歩き出せば、歩くことが楽しくて、アヤちゃんはトットとお母さんを追いかけるのである。私もそのようにして「私の歩いた道」を来たのかもしれない。神は少し先で、私を待っていてくださった。歩くそのことが楽しくてここまで来たのである。
(†心のデボーション02571)
† 心のデボーション 02572
「されば神の御意に從ひて苦難を受くる者は、善を行ひて己が靈魂を眞實なる造物主にゆだね奉るべし。」 Ⅰペテロ4:19 大正文語訳聖書
「だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」 口語訳聖書
「目的と意味」
何かの目的をもって存在していることが信じられれば、すべてのものに意味の世界がひろがってくる。神が居ますということは、そのようなことである。
(†心のデボーション02572)
† 心のデボーション 02573
「かくて、ガリラヤの海邊をあゆみて、二人の兄弟ペテロといふシモンとその兄弟アンデレとが、海に網うちをるを見給ふ、かれらは漁人なり」 マタイ4:18 大正文語訳聖書
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」 新共同訳聖書
「自分の場」
イエスはガリラヤ湖で網を打つペトロとアンデレをご覧になった。人は「自分の場」で神に見出される。神に見出されることによって「私」を知る。イエスは必ず、「あなた」が営まれているところに訪ねてこられるだろう。
(†心のデボーション02573)
† 心のデボーション 02574
「わが奇とするもの三あり否な四あり共にわが識ざる者なり 即ち空にとぷ鷲の路 磐の上にはふ蛇の路 海にはしる舟の路 男の女にあふの路これなり」 箴言30:18~19 明治元訳聖書
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。」 口語訳聖書
「百舌の速贄」
百舌鳥は秋から冬にかけて捕らえた獲物をその場で食べずに木の枝に突き刺しておく習性がある。バッタ、蛙、蚯蚓、百足、おけら、ザリガニ、蜥蜴などが犠牲になる。このことからイギリスでは百舌鳥は「屠殺人の鳥」、ドイツでは「絞め殺す天使」と呼ばれるという。なぜそのようなことをするのか、百舌鳥の事は百舌鳥に聞くしかない。
(†心のデボーション02574)
† 心のデボーション 02575
「二人ながら神の前に正しくして、主の誡命と定規とを、みな缺なく行へり。」 ルカ1:6 明治元訳聖書
「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。」 口語訳聖書
「正しい人」
「戒め」の語源は「忌む」+使役助動詞「しむ」で、「遠ざける」が原意であるという。エルサレムの祭司ザカリヤと妻のエリサベツは老いていたが、「神のみまえに正しい人」であるために「主の戒め(ご命令)」を落ち度なく守った。
(†心のデボーション02575)
† 心のデボーション 02576
「かれら互に言ふ『途にて我らと語り、我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』」 ルカ24:32 大正文語訳聖書
「彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」 口語訳聖書
「心に静かに燃え」
模型飛行機を作ってみようと思ったのは、子どものころ何台作ってもうまく飛ばなかったからである。完成した模型飛行機は見事に飛んだ。たった一回の試し飛行に深く満足し、二度と作ろうとは思わなかった。これさえあれば、それ以上のものがなくてもやっていける、そういう喜びもあった。エマオの途上で復活のイエスに出会った「二人の弟子」の心は静かに燃え、それは生涯消えることはなかったであろう。
(†心のデボーション02576)
† 心のデボーション 02577
「汝の嚢の中に一箇は大く一箇は小き二種の權衡石をいれおくべからず 」 申命25:13 明治元訳聖書
「あなたの袋に大小二種の重り石を入れておいてはならない。」 口語訳聖書
「いかさま」
「いんちき」は賭博仲間の隠語であるというが、なぜ「いかさま」を「いんちき」と言うかはよくわからない。語源などわからなくても意味するところはわかっている。旧約聖書は袋に「大小二種類の重り」を入れておいてはならないと教える。「いかさま」のためであるのは明らかである。「大小二種類の重り」で自己を量るのも「いかさま」であろう。
(†心のデボーション02577)
† 心のデボーション 02578
「なんぢら早くおき遅くいねて辛苦の糧をくらふはむなしきなり 斯てヱホバその愛しみたまふものに寝をあたへたまふ」 詩篇127:2 明治元訳聖書
「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」 口語訳聖書
「眠っている時にも」
時実利彦さんが中国の南北朝時代、呉地方でうたわれた読曲歌の一つを紹介している。(時実利彦『人間であること』より)
「ピーチクさえずる 雀をころし
コケッコとなく 鶏をしめて
毎日まっくら 夜があけず
一年分も ねてみたや」 (「中国文学講話」岩波書店)
目覚めても、もう少し眠りたい人の歌であろう。「一年分」などと欲張るものではない。
(†心のデボーション02578)
† 心のデボーション 02579
「四十日四十夜斷食して、後に飢ゑたまふ」 マタイ4:2 大正文語訳聖書
「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」 新改訳聖書
「四十日四十夜」
イエスは荒野で四十日四十夜断食され、サタンの試みを受けられた。モーセもシナイ山で、四十日四十夜断食した後に十戒を授けられる。エリヤは四十日四十夜を歩き、神の山ホレブに着く。「四十日四十夜」は、人が一つの試練を受けとるのに必要とされる期間なのかもしれない。神は四十日四十夜を祈る人の手を支えてくださる。
(†心のデボーション02579)
† 心のデボーション 02580
「されば神の御意に從ひて苦難を受くる者は、善を行ひて己が靈魂を眞實なる造物主にゆだね奉るべし」 Ⅰペテロ4:19 大正文語訳聖書
「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」 新共同訳聖書
「私という存在」
創世記は広大な宇宙から人間のいのちの環境にズームする。そして創世記はそのすべてを語るよりも、人間にのみ焦点あてている。人間が宇宙の視点から見られているのである。「私」はその視点を受け入れられるだろうか?
(†心のデボーション02580)
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