心のデボーション257

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† 心のデボーション 02561

「なんぢの口を嘉物にてあかしめたまふ 斯てなんぢは壯ぎて鷲のごとく新になるなり」 詩篇103:5 明治元訳聖書

「あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。」 口語訳聖書

 「ひとつよきもの」

「ひとつよきもの、よろずよし」という。八方ふさがりの中でも、よきものがひとつ見つけられると、そこからいくつもの「よきもの」が現われてくる。「よきもので満たされる一生」は、「ひとつよきもの」からはじまるのかもしれない。神はときに、意外と小さな「ひとつよきもの」を与えられる。しかし、それは一生を満たすのに十分であることも多い。

† 心のデボーション 02562

「今顯れて、永遠の神の命にしたがひ、預言者たちの書によりて信仰の從順を得しめん爲に、もろもろの國人に示されたる奧義の默示に循へる我が福音と、イエス・キリストを宣ぶる事とによりて、汝らを堅うし得る、」 ロマ16:26 大正文語訳聖書

「願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、」 口語訳聖書16:25,26

 「奧義の啓示」

「啓示」のラテン語 rebelatio は、もともと「覆おう、ベール」を意味する velamen を外す erbelare から来ている。人間の目に覆われて見ることのできない神の奧義が神の愛によって、神の側から外されて人間の前にあらわに開示されることである。しかし、神の奧義がすべてをあらわにされるのではなく、人間の救済に必要な事柄が啓示されるのである。

† 心のデボーション 02563

「この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』」 マタイ4:17 大正文語訳聖書

「このときから、イエズスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた」 フランシスコ会訳書

 「イエスの宣教」

イエスはバプテスマのヨハネと同じ宣教を開始された。それはヨハネの「水のバプテスマ」に対して、「聖霊と火によるバプテスマ」によるものであった。(マタイ3:11) イエスの宣教はバプテスマのヨハネとは別のものではなく、それを完成するものであった。「全き者の來らん時は全からぬもの廢らん」 Ⅰコリント13:10

† 心のデボーション 02564

「ヨセフかれらの安否をとふていふ汝等の父汝らが初にかたりしその老人は恙なきや尚いきながらへをるや」 創世43:27 明治元訳聖書

「ヨセフは彼らの安否を問うて言った、『あなたがたの父、あなたがたがさきに話していたその老人は無事ですか。なお生きながらえておられますか』」 口語訳聖書

 「シャローム」

ヨセフは久しぶりに再会した兄弟たちに老いた父ヤコブの安否を問う。「安否を問う」はヘブライ語「シャローム ‎שׁ‏ָלוֹם」である。「シャローム ‎שׁ‏ָלוֹם」は「平和」を意味するヘブライ語の挨拶の言葉で、「完成、全体」という基本的平和がありますようにとの意味である。出会う人の「無事、平安、健康、繁栄、安心、和解」のあらゆる領域に生の充実した状態を問い、願うことばである。

† 心のデボーション 02565

「何事にまれ、徒黨また虚榮のためにすな、おのおの謙遜をもて互に人を己に勝れりとせよ。」 ピリピ2:3 大正文語訳聖書

「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」 口語訳聖書

 「へりくだった心」

「私は一介の求道の者にすぎません」というときの、「一介」は「芥(あくた)」にも通じ、価値のない小さき者の意味である。「へりくだった心 ταπεινοφροσύνη」は人に対するだけではなく、神に対するへりくだりを意味することばである。しかし、「へりくだった心 ταπεινοφροσύνη」には、あやまった謙遜、わざとらしい謙虚さ」の意味にも用いられる。口では「一介の…」と言いながら見せかけの謙遜を装うのも「ταπεινοφροσύνη」である。

† 心のデボーション 02566

「わが肉をくらひ我が血をのむ者は、我に居り、我もまた彼に居る」 ヨハネ6:56  大正文語訳聖書

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」 口語訳聖書

 「リストカット」

「自分の体に血が流れているかどうかよくわからなくて、カッターで手首を切ってみた。血が出て、どこかホッとした。でも、痛みは感じなかった」。血の流れた感じられないくらいに彼女の人生は動きを止めてしまっていたのである。自分がこれで生きているといえるのか、わからない。人は自分の血を流すのでなく、自分のために流された血によって「痛み」を感じる。それによって、私たちは生きるのである。

† 心のデボーション 02567

「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり。」 ロマ5:5 大正文語訳聖書

「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」 口語訳聖書

 「ヤマアラシジレンマ」

「やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。だが、まもなくおたがいに棘の痛いのが感じられて、また分かれた。温まる必要から、また寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。(略)」 (『ショーペンハウアー全集 14 哲学小品集(Ⅴ)』)

人は温もりを求めて相手に近づくが、あまり近づきすぎると、互いの棘が互いを傷つける。少し離れると寒くなり、接近すると痛みが走る。丁度良い距離? それでは温かいとは思えない。だが、互いの距離だけが温もりを与えるものでもない。

† 心のデボーション 02568

「人たとひ我が言をききて守らずとも、我は之を審かず。夫わが來りしは世を審かん爲にあらず、世を救はん爲なり。」 ヨハネ12:47 大正文語訳聖書

「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。」 口語訳聖書

 「罪の救い」

イエスの目的は「この世の裁き」ではなく、罪から救うためである。そのために、主は「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない」と言われるのである。罪が放置されるのではない。

† 心のデボーション 02569

「妒忌その夫をして忿怒をもやさしむればその怨を報ゆるときかならず寛さじ」 箴言6:34 明治元訳聖書

「ねたみは、その夫を激しく怒らせるゆえ、恨みを報いるとき、容赦することはない。」 口語訳聖書

 「嫉妬」

嫉妬は想像から沸き上がる妄想である。想像が勝手に歩き出して、一人よがりな物語を作る。愛すればこそ嫉妬するのであるが、そのとき愛は憎しみに変わっている。愛と嫉妬は、人間の心では、同時には存在しないのである。真の愛だけが、想像の暴走を止まらせることができる。嫉妬を克服するには、愛を成熟させ以外にない。

† 心のデボーション 02570

「或人は異能ある業、ある人は預言、ある人は靈を辨へ、或人は異言を言ひ、或人は異言を釋く能力を賜はる。」 Ⅰコリント12:10 大正文語訳聖書

「またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。」 口語訳聖書

 「異言を解く力」

パウロは教会で異言を語るときには、多くても三人で順番に話し、ひとりは異言を解き明かすようにと勧め、もし、「解説者 ἑρμηνεύς」がいないところでは沈黙するようにと戒めている。(Ⅰコリント14:27~28) 異言を解く、霊を見分けることも主よりの賜物である。

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