心のデボーション256

デボーション1
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† 心のデボーション 02551

「ヱホバよわが心おごらずわが目たかぶらず われは大なることと我におよばぬ奇しき事とをつとめざりき」 詩篇131:1 明治元訳聖書

「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません」 口語訳聖書

 「反発」

役者に「見せよう」という意識が働くと、観客はその舞台に反発し失敗するという。舞台を創るには、自分自身の目と観客のまなざしを自分のものにし、さらに、その「見ている」という意識も消さなければならないのだそうである。力は自分に向けて充実させれば、外に誇示する必要もなくなる。人から反発をかうのは、どこかに見せよう与えようという意識が見えるからである。「私は誇らない」という意識も消して、自分自身になれればよい。

(†心のデボーション02551)

† 心のデボーション 02552

「なんぢ眞理の言を正しく教へ、恥づる所なき勞動人となりて、神の前に錬達せる者とならんことを勵め。」 Ⅱテモテ2:15

「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。」 口語訳聖書

 「恥じるところのない」

「恥じるところのない ἀνεπαίσχυντος」には、「恥じる必要のない」の意味もある。「真理の言葉をまっすぐに語る人は、その働きについ、恥じる必要もなく、て恥をかかせられることもない。

(†心のデボーション02552)

† 心のデボーション 02553

「この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』」 マタイ4:17 大正文語訳聖書

「このときから、イエズスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた」 フランシスコ会訳聖書

 「神の言葉」

イエスは『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』をもって宣教を開始された。この言葉はバプテスマのヨハネが荒野で語ったのと同じである。(マタイ3:2)

その理由を尋ねれば、イエスはヨハネからバプテスマを受けられたときと同じように『今は許せ、われら斯く正しき事をことごとく爲遂(しと)ぐるは、當然なり』(マタイ3:15)と答えられるに違いない。

神の言葉は神の選ばれた器を通して語られる。異なる器から聞くことを驚くべきではない。高き者が低き者から神の言葉を聞くことも希ではない。

(†心のデボーション02553)

† 心のデボーション 02554

「我が兄弟テトスに逢はぬによりて心に平安をえず、彼處の者に別を告げてマケドニヤに往けり」 Ⅱコリント2:13 大正文語訳聖書

「兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。」 口語訳聖書

 「慰め」

コリントの教会に違反者が生まれ教会に混乱が生じたことからパウロは違反者を処罰する手紙を書いた。処罰は愛による許しのためであり、パウロはそのことにも心を痛め、テトスをコリントの教会に派遣した。しかし、トロアスでテトスに会うことが出来なかったことでパウロはコリントの教会について報告を聞くことができず、「心に安らぎがないままに」マケドニヤに向かい、そこでテトスに出会い、コリントの教会について報告をうけて慰めを得たのである。(Ⅱコリント7:5~16) 教会への深い愛が、パウロを導いていた。

(†心のデボーション02554)

† 心のデボーション 02555

「遣されずば爭で宣傳ふることをせん『ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。」 ロマ10:15 大正文語訳聖書

「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。」 口語訳聖書

 「韋駄天走り」

足の速い人を「韋駄天走り」というが、「韋駄天」は仏舎利を盗んだ捷疾鬼(しょうしつき)を追いかけて取り戻したことから足の速い者を指すようになったという。韋駄天が走り回って釈尊のために食べ物を集めたので「御馳走」ということばが出来たそうである。「韋駄天走り」は、盗人を追いかけるだけのものではないようだ。

(†心のデボーション02555)

† 心のデボーション 02556

「亡たる者は我これを尋ね逐はなたれたる者はこれを引返り傷けられたる者はこれを裹み病る者はこれを強くせん然ど肥たる者と強き者は我これを滅さん我公道をもて之を牧ふべし」 エゼキエル34:16 明治元訳聖書

「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。」 口語訳聖書

 「はぐれサル」

群れからはぐれたサルは「わあああ」と大きな声を出すそうである。それはいつもとは違う、何ともいえない寂しい叫びに聞こえる。見失った仲間を求めているのだろう。私たちが時々、わけもなく寂しさを感じるのは自分の群れを見失ったからではないだろうか。群れからはぐれたのではなく、群れの中にいながら群れを見失っているのである。しかし、耳を澄ませば、自分を呼ぶもう一つの声が聞こえるかもしれない。

(†心のデボーション02556)

† 心のデボーション 02557

「去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんと」 創世11:7 明治元訳聖書

「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」 口語訳聖書

 「3000の言語」

世界には3000もの種類の言語があるという。バベルの塔以来、人は「一つの民、一つのことば」から全地に散らされ、異なる言語を用いるようになった。それぞれの言語があることが新しい祝福となったのである。人間は自分とは異なる言語によって互いを理解しなければならないのである。相手が自分と同じ言語を語るからといって、その事情は同じである。

(†心のデボーション02557)

† 心のデボーション 02558

「ヱホバを畏るるとは惡を憎むことなり 我は傲慢と驕奢 惡道と虚偽の口とを憎む」 箴言8:13 明治元訳聖書

「主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。」 口語訳聖書

 「慇懃無礼」

態度や言葉使いが丁寧過ぎても「慇懃無礼」ととられることがある。「慇懃」の「慇 おん」も「懃 ごん」も「心をこめる」の意味である。しかし、表面だけの「慇懃」は無礼につながるのである。馬鹿丁寧ということもある。これをやる人は、自分のやっていることをわかっていて、あえて慇懃をやるので、すぐにわかる。

(†心のデボーション02558)

† 心のデボーション 02559

「神モーセにいひたまひけるは我は有て在る者なり又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我を汝らに遣したまふと」 出エジプト3:14 明治元訳聖書

「神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい、「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。」 口語訳聖書

 「有りて有る者」

時計を壊す人がいる。時計をていねいに分解し、部品の山にしてしまうのである。家中の時計を分解し、それが終わると時計を買い込んで分解を続ける。彼が探しているのは、時の中に生きる自分なのであろう。しかし、いくつ時計を分解しても、そこに時の意味が見えるわけではない。時の問題は私たちを「有りて有る者」といわれる神に導く。この方のみが、人を「存在に至らせる」ことができる。

(†心のデボーション02559)

† 心のデボーション 02560

「かくて我らの伴侶も善き業を務めて必要を資けんことを學ぶべし、これ果を結ばぬ事なからん爲なり。」 テトス3:14 大正文語訳聖書

「私たちの仲間も、差し迫った必要のために、率先して良い行いをすることを学ぶべきです。実を結ばない者とならないためです。」 聖書協会共同訳聖書

 「差し迫った必要」

「差し迫った必要 ἀναγκαῖος」は「欠かすことのできない、親密な」の意味である。現実的な必要のために、率先して善い行いをすることを学ぶ必要がある。人は「欠かすことのできないもの」を後回しにして、現実的は必要に目を閉ざすからである・

(†心のデボーション02560)

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