心のデボーション255

デボーション1
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† 心のデボーション 02541

「ロトのアブラムに別れし後ヱホバ、アブラムに言たまひけるは爾の目を擧て爾の居る處より西東北南を瞻望め」 創世13:14

「ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。」 口語訳聖書

 「希望の貧しさ」

ロトと決別した後アブラハムは無力感に襲われていた。うなだれて、足元しか見ることができない。確かにアブラハムの現実は不毛で厳しいものだった。しかし、神はそれがすべてではないと告げる。目を上げて、自分の立っているところから遠くを見ること言われる。そうすれば、約束された恵みの広がりが見渡すことができる。私たちをうなだれさせるのは、現実の厳しさではなく、希望の貧しさである。

(†心のデボーション02541)

† 心のデボーション 02542

「汝らの所有を賣りて施濟をなせ。己がために舊びぬ財布をつくり、盡きぬ財寶を天に貯へよ。かしこは盜人も近づかず、蟲も壞らぬなり」 ルカ12:33 大正文語訳聖書

「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」 口語訳聖書

 「使い尽くせない宝」

「尽きることのない宝 θησαυρὸν ἀνέκλειπτον」は「ἀνέκλειπτος (使い尽くせない、無尽蔵の) θησαυρός(宝、宝庫)」の意味である。これを入れる財布はいつになっても古びることがない。

(†心のデボーション02542)

† 心のデボーション 02543

「この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』」 マタイ4:17 大正文語訳聖書

「このときから、イエズスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え始められた」 フランシスコ会訳聖書

 「神の国は近づいた」

「神の国は近づいた ἐγγίζω  エンギゾー」 原文 ἤγγικεν エンギケンは完了形で「近づいて、そこに来ている」の意味。「いま正にここにあり!」(山浦玄嗣訳)である。

「どこに神の国があるのか」と訝る者に、イエスは「ほら、ここにある」と言われる。目の前にイエスが立っておられる、それが「神の国の到来」である。イエスに「神の国」を見る。

(†心のデボーション02543)

† 心のデボーション 02544

「愚者、背徳者にして、愛情なく、忠實なく、慈悲なき人々たるなり。」 ロマ1:31 大正文語訳聖書

「わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」 新改訳聖書

 「憐れみのない無慈悲」

「慈愛のない者 ἀνελεήμων」は「無情な者」の意である。「無情であること、憐れみのない無慈悲」は「背徳」とともに、罪である。

(†心のデボーション02544)

† 心のデボーション 02545

「わがたましひ痛めるによりてとけゆく ねがはくは聖言にしたがひて我にちからを予へたまへ」 詩篇119:28 明治元訳聖書

「わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」 口語訳聖書

 「いたいけな子」

親に死に分かれた子を「いたいけな子」と不憫に思う。「いけいけ」は「痛き気配」のことで、見ると心が痛むの意味である。「いたいき盛り」といえば子どもの可愛い年ごろを意味する。「いたいき盛り」の子が親に死に別れたので、その可愛らしさがことさらに痛々しいのである。

(†心のデボーション02545)

† 心のデボーション 02546

「石は重く沙は軽からず 然ど愚なる者の怒はこの二よりも重し」 箴言27:3 明治元訳聖書

「石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。」 口語訳聖書

 「四千億トン」

石は重く砂も重い。しかし、愚か者の怒りはもっと重いと箴言は語る。「砂」は海の砂のことで、その重さははかりしれない。とすれば「石」は山と考えることができる。東大地震研究所の萩原教授の計算によると、谷川岳の重さは、ざっと四千億トンだそうである。抑えることをしない人の怒りは四千億トンよりもっと重いということか。怒った後のむなしさは、それよりずっと重い。

(†心のデボーション02546)

† 心のデボーション 02547

「わが心はうるはしき事にてあふる われは王のために詠たるものをいひいでん わが舌はすみやけく寫字人の筆なり」 詩篇45:1 明治元訳聖書

「わたしの心はうるわしい言葉であふれる。わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ。」 口語訳聖書

 「歌を詠む」

歌を詠む人は一首ごとに深い喜びがあるという。歌を詠み得たことへの喜びであろう。自分からことばが生み出される幸せがそこにある。

(†心のデボーション02547)

† 心のデボーション 02548

「なんぢヒソブをもて我をきよめたまへ さらばわれ淨まらん 我をあらひたまへ さらばわれ雪よりも白からん」 詩篇51:1 明治元訳聖書

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」 口語訳聖書

 「いけ好かない」

ひどく感じが悪いことを「いけ好かない」という。「いけ」は憎むべきことへの非難を強調する接頭語である。

「いけしゃあしゃあと」とか「いけずうずうしい」なども同じである。自分が「いけ…」と言われているのではと思う時がある。

(†心のデボーション02548)

† 心のデボーション 02549

「我は祈る、汝らの愛、知識ともろもろの悟とによりて彌が上にも増し加はり、」 ピリピ1:9 大正文語訳聖書

「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、」 口語訳聖書

 「知る力、見抜く力」

「知る力」と「見抜く力」を欠いた愛は、しばしば、人を傷つける。愛の存在しない「知る力」と「見抜く力」が人を怯えさせるのだ。愛は「知る力」と「見抜く力」に支えられるのである。「知る力」と「見抜く力」が愛を深めるのではない。愛の深まりが「知る力」と「見抜く力」を促すのである。その故に人は「愛がますます豊かになる」ことを祈るのである。

(†心のデボーション02549)

† 心のデボーション 02550

「ああ神の智慧と知識との富は深いかな、その審判は測り難く、その途は尋ね難し。」 ロマ11:33 大正文語訳聖書

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」 新改訳聖書

 「はかり難い知恵」

「その道は、何と測り知りがたいことでしょう ἀνεξιχνίαστος」は「探し尽くすことのできない無尽蔵」をあらわす。神の知恵と知識は底知れず、探し尽くせぬ深みである。人は生涯をかけてその僅かを知るにすぎない。

(†心のデボーション02550)

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