心のデボーション254

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† 心のデボーション 02531

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35  大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」 口語訳聖書

 「受けることのできる人」

援助することはできても援助されることは拒む人は、本当の援助を知らない。真に与える人は、その時がきたら、受けることのできる人のことだと思うからである。その人は好意を受けることによって、より多くを与えるだろう。人はいつか年をとり、一方的に受ける側に立つ。そのときでも、私たちは与えることができる。幸いに生きるとはそういうことではないだろうか。

(†心のデボーション02531)

† 心のデボーション 02532

「ヱホバはわれを悦びたまふがゆゑにわれをたづさへ廣處にだして助けたまへり」 詩篇18:19 明治元訳聖書

「私を広い所に導き出した。/私を助け出し、喜びとしてくださる。」 聖書協会共同訳聖書 18:20

 「広がり」

「広い所 מֶר‏ְח‏ָב」には「広々とした所」の意味に加えて「広がり」の意味を持つ。神は私に「広がり」を与えてくださる。

(†心のデボーション02532)

† 心のデボーション 02533

「暗きに坐する民は、大なる光を見、 死の地と死の蔭とに坐する者に、光のぼれり」 マタイ4:16 大正文語訳聖書

「闇に住むこれらの民はおおいなる光を見た。死のかげに覆われた地に住む人々に光が現われた」 フランシスコ会訳聖書

 「死の陰」

「死の地と死の陰」はヨブ記に出てくる。

「我が往て復返ることなきその先に斯(かく)あらしめよ 我は暗き地死の蔭の地に往ん 。この地は暗くして晦冥(やみ)に等しく死の蔭にして區分(わいだめ)なし 彼處にては光明(ひかり)も黑暗(くらやみ)のごとし」 ヨブ記10:21~22

「死の陰」はへブル語 צַלְמָותֶ salmawet 「深い闇・暗黒の地」で、「往て復返ることなき」ところ、すなわち陰府をさす。そこは秩序なく、光も闇のようである。

「大いなる光」はヨブとともに苦しむ人々を照らす。

(†心のデボーション02533)

† 心のデボーション 02534

「われに聖意をとめ 我にこたへたまへ われ歎息によりてやすからず悲みうめくな」 詩篇55:2 明治元訳聖書

「私に心を向け、答えてください。/私は嘆きの中にあってうろたえ、不安です」 聖書協会共同訳聖書 55:3

 「不安です」

詩人は人に不安を口にしない。だから、神にはっきりと「不安です」と言う。「嘆きの中にうろたえている私の心に答えてください」と祈るのである。

(†心のデボーション02534)

† 心のデボーション 02535

「さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん」 マタイ7:24 大正文語訳聖書

「以上のわたしの言葉を聞いて実行する者は皆、岩の上に家を建てた賢い人にたとえられる」 フランシスコ会訳聖書

 「礎」

「礎」という漢字は、「石を据える」からきている。物事の基礎は、据えられた大石のようにそのうえに立つものを支える。物事の良し悪しは礎にある。人生は礎を確かなものとする過程である。礎は、どんなに堅固であっても、絶えず新たに成熟するのでなければ死んだものにすぎない。

(†心のデボーション02535)

† 心のデボーション 02536

「ヱホバ、ユダとヱルサレムの人々にかくいひ給ふ汝等の新田を耕せ荊棘の中に種くなかれ」 エレミヤ4:3 明治元訳聖書

「まことに、主はユダの人、エルサレムとにこう仰せになる。『自分たちで休閑地を耕せ。茨の中に種を蒔くな』」フランシスコ会訳聖書

 「耕地をたがやす」

自分を知ることは「耕地を開拓する」ことかもしれない。そこはまだ鍬を入れたことのない荒地で、石くれが混ざっている。複雑にからみ合った人間関係を掘り起こし、いばらを除き、種を蒔く。期待することをやめ、荒れるままに放置してきたところに、豊かな実りが隠されている。鍬を入れる手を休めてはいけない。「恵み」という種を蒔き続ければ「愛」が実る。(ホセア書10:12)

(†心のデボーション02536)

† 心のデボーション 02537

「姑いひけるは女子よ坐して待ち事の如何になりゆくかを見よ」 ルツ3:18 明治元訳聖書

「しゅうとめは言った、「娘よ、この事がどうなるかわかるまでお待ちなさい。」 口語訳聖書

 「いきなり」

突然のことを「いきなり」というが、「いきなり」は「行き成り」で、「物事を進むにまかせる」の意であるという。そうしていると突然(いきなり)何かが始まる。ナオミがルツに告げたのは「この事がどうなるかわかるまでお待ちなさい」という言葉だった。

(†心のデボーション02537)

† 心のデボーション 02538

「もろもろの天は神のえいくわうをあらはし 穹蒼はその手のわざをしめす」 詩篇19:1 明治元訳聖書

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」 口語訳聖書

 「自然」

古代ギリシャ語で「自然」は φύσις ピュシス (生じる)」であり、英語 nature  はラテン語 naascor (生まれる)の名詞形 natura から来ている。中世の時代には「神は、聖書という書物と自然という書物を書かれた」と考えられ、自然を観察することから神の御心を知ることができると考えられた。

(†心のデボーション02538)

† 心のデボーション 02539

「なんぢらメリバに在りしときのごとく 野なるマサにありし日の如く その心をかたくなにするなかれ」 詩篇95:8 明治元訳聖書

「あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。」 口語訳聖書

 「洞が峠」

天正十年、羽柴秀吉と明智光秀が山崎に対峙したとき、筒井順慶が洞が峠に陣をとり、どちらにつくべきか、形成を見極めようとした。自分に有利か不利かで「洞が峠」をきめこむと、大切なところで判断を誤るものである。

私たちが神の御声を聞くのは、たいてい「洞が峠」の少し手前である。「洞が峠」では、予想もしない展開を見てもあわてないことである。神の不思議が現われるのは、そういうときだからである。

(†心のデボーション02539)

† 心のデボーション 02540

「上古よりこのかた汝のほかに何なる神ありて俟望みたる者にかかる事をおこなひしや いまだ聽ず いまだ耳にいらず いまだ目にみしことなし」 イザヤ64:4 明治元訳聖書

「いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。」 口語訳聖書

 「神の霊感」

人間の理性を超えるある事柄が神によって知らされることがある。「Divinitus inspirate 神の霊感(神から受けた、神の霊によって照らされ、知らされる)」による。神を待ち望む者に、「このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない」ことを聞くのである。

(†心のデボーション02540)

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