† 心のデボーション 02521
「なんぢは人の子輩にまさりて美しく文雅そのくちびるにそそがる このゆゑに神はとこしへに汝をさいはひしたまへり」 詩篇45:2 明治元訳聖書
「あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。」 口語訳聖書
「気難しい人」
私たちの場合「そのくちびるから優しさが流れ出る」といわれるような人が注意しなければならないのは「気難しさ」である。「優しさ」の影には「気難しさ」が隠されることが少なくない。優しい気配りの人なのだが、周囲はとても気をつかう。気配りをしながら、周囲に同じ気配りを要求しているからかもしれない。人に優しさを求めないのが神の優しさである。
(†心のデボーション02521)
† 心のデボーション 02522
「心の智き者は誡命を受く されど口の頑愚なる者は滅さる」 箴言10:8 明治元訳聖書
「心に知恵ある人は戒めを受け入れ/唇の愚かな者は滅びる。」 聖書協会共同訳聖書
「心に知恵ある人」
自分への戒めの声は聞きにくいものだ。そこで「唇の愚かな者」になってしまう。「心に知恵ある者」を
Today’s English Versionは「Sensible people(思慮深い、分別のある者) accept good advice.」と訳す。
(†心のデボーション02522)
† 心のデボーション 02523
「暗きに坐する民は、大なる光を見、 死の地と死の蔭とに坐する者に、光のぼれり」 マタイ4:16 大正文語訳聖書
「闇に住むこれらの民はおおいなる光を見た。死のかげに覆われた地に住む人々に光が現われた」 フランシスコ会訳聖書
「闇」
「暗闇に住む民」(新共同訳)の「闇」は暗いとは限らない。先が見えないところは、明るくても「暗闇の地」で
ある。
(†心のデボーション02523)
† 心のデボーション 02524
「汝らイエスを見しことなけれど之を愛し、今見ざれども之を信じて、言ひがたく、かつ光榮ある喜悦をもて喜ぶ。」 Ⅰペテロ1:8 大正文語訳聖書
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。」 口語訳聖書
「言語に絶する喜び」
「あなたがたは…言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」とペテロは言う。「言葉につくせない ἀνεκλάλητος」は「言語に絶する、なくなることのない」の意味である。イエス・キリストを見たことはなくても信じる者は「言語に絶する喜び」のなかにある。
(†心のデボーション02524)
† 心のデボーション 02525
「昔しイスラエルにおいては人神にとはんとてゆく時はいざ先見者にゆかんといへり其は今の預言者は昔しは先見者とよばれたればなり 」 Ⅰサムエル9:9 明治元訳聖書
「昔イスラエルでは、神に問うために行く時には、こう言った、「さあ、われわれは先見者のところへ行こう」。今の預言者は、昔は先見者といわれていたのである。」 口語訳聖書
「先見者」
預言者は、以前には「先見者」と呼ばれた。「先見者」は、「見る者」から来ており、「幻を見る者」とされた。未来を予見する能力をもつとされた。神に問うために、人々は先見者を訪れたのである。預言者はバプテスマのヨハネをもって終わり、人は先のことについて、「さあ、われわれは御言葉に行こう」という時が来たのである。
(†心のデボーション02525)
† 心のデボーション 02526
「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり」との御言を記憶すべきなり』 」 使徒20:35 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」 口語訳聖書
「受ける」
受けるより与える方が幸いである。しかし、それでは常に与える側に自分を置くべきだろうか。本当に与えることのできる人は、受けることもできる人だと思う。自分も受けていると知っているからこそ、真に与えることができるのではないか。受けたり、与えたりする関係に出会えたことが嬉しい。そこでは、受ける側とか、与える側という意識もなく、すべてが当り前のようになされるのである。
(†心のデボーション02526)
† 心のデボーション 02527
「互に相訴ふるは既に當しく汝らの失態なり。何故むしろ不義を受けぬか、何故むしろ欺かれぬか。」 Ⅰコリント6:7 大正文語訳聖書
「そもそも、互いに訴え合うことが、あなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、奪われるままでいないのですか。
「一敗地に塗れる」
決定的な敗北を喫することを「一敗地に塗れる」という。「塗れる」は「泥まみれになる」の意味である。
コリントの教会に争いがおこったとき、パウロは「なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、奪われるままでいないのですか」と書き送る。互いに訴えあうよりも、「なぜ、泥にまみれないのか?」というのである。互いに争うことこそが決定的な敗北なのだと教えている。
(†心のデボーション02527)
† 心のデボーション 02528
「智慧ある者は之を聞て學にすすみ 哲者は智略をうべし」 箴言1:5 明治元訳聖書
「知恵ある人は聞いて判断力を増し/分別ある人は導きを得る。」 聖書協会共同訳聖書
「適応」
人と暮らす犬は、あたかも人間と対話するかのような振る舞いをする。しかし、その犬を野におけば、身に着けた能力をもって仲間の犬を導けるかといえば、それはない。その犬はいち早く野犬になるだろう。適応とは目の前の出来事に対応する知恵にすぎない。人間の場合はどうか?
(†心のデボーション02528)
† 心のデボーション 02529
「アブラム乃(すなは)ちヱホバの自己(おのれ)に言たまひし言に從て出たり ロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」 創世12:4 明治元訳聖書
「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」 口語訳聖書
「見切り発車」
いざとなるとあれこれ考えてしまい、ふみきれない時、「見切り発車」という手がある。アブラムも行き先を知らずに出発している。いわば、見切り発車であった。考えて見れば、ものごとはどこか見切り発車である。見切らなければ新しく始めることはできない。ただ、見切り発車は、全速ですべきではない。アブラムも祈りながらゆっくり移動していったのである。
(†心のデボーション02529)
† 心のデボーション 02530
「神の大能の勢威の活動によりて信ずる我らに對する能力の極めて大なるとを知らしめ給はんことを願ふ」 エペソ1:19 大正文語訳聖書
「また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」 口語訳聖書
「神学」
ギリシャ語で「神学 thologia」は「thos神 + logos 学」であり、ラテン語「scientia divina」は「神が知るところの知」に関する学である。人が求めるべきは、神が神御自身について持たれる「神の知」である。
(†心のデボーション02530)
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