† 心のデボーション 02501
「われは死たるもののごとく忘られて人のこころに置れず われはやぶれたる器もののごとくなれり」 詩篇31:12 明治元訳聖書
「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。」 新改訳聖書
「場違い」
その場の雰囲気を損なわないように注意する必要はある。しかし、場の外にはじき出されることを恐れてばかりいると、自分が場違いなことをしていないかどうかとても気になる。多少の場違いはあっても、本当の自分を引っ込めないことだ。恐れなければならないのは、自分の内から本当の自分をはじき出してしまうことで、自分という器を壊さずに、そこにもられたものを大切にしていれば、器にふさわしい場が自ずとつくられる。
(†心のデボーション02501)
† 心のデボーション 02502
「墮落する者は更にまた自ら神の子を十字架に釘けて肆し者とする故に、再びこれを悔改に立返らすること能はざるなり。」 ヘブル6:6 大正文語訳聖書
「そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。」 口語訳聖書
「再び十字架に」
「ふたたび悔改めにたち帰る ἀνακαινίζω」は「再び新しくする」の意味で「再び悔い改める」である。「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には…ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」と言われている。(ヘブル6:4~6) 彼は「またもや神の御子を、自ら十字架につけて ἀνασταυρόω、さらしものにする」からである。イエスを裏切ったユダは「銀貨30枚」でイエスを十字架につけ、悔い改めを拒むことによって「再びイエスを十字架につけた」のである。
(†心のデボーション02502)
† 心のデボーション 02503
「暗きに坐する民は、大なる光を見、 死の地と死の蔭とに坐する者に、光のぼれり」 マタイ4:16 大正文語訳聖書
「ぬばたまの闇にひそむ者どもは、おおいなる輝きを見、墓所の陰に坐する者どもにも光が昇った」 山浦玄嗣訳
「ぬばたまの闇」
山浦玄嗣訳は「暗きに坐する民」を「ぬばたまの闇にひそむ者ども」と訳す。「ぬばたま」はアヤメ科の多年草でヒオウギ(檜扇)の黒い実のことである。夜、髪などの枕詞に使われる。漆黒の闇にひそむ者が「おおいなる輝き」を見る。
(†心のデボーション02503)
† 心のデボーション 02504
「信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり」 ヘブル12:2 大正文語訳聖書
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」 口語訳聖書
「目を離さないで」
「イエスを仰ぎ見る ἀφοράω」は「目を離さないで、見極めて」の意味である。信仰の導き手であり完成者であるお方から目をそらせてはならない。あれかこれかで心を散漫にするものはあれもこれも失う。
(†心のデボーション02504)
† 心のデボーション 02505
「其人の名はナバルといひ其妻の名はアビガルといふアビガルは賢く顔美き婦なりされど其夫は剛愎にして其爲すところ惡かりきかれはカレブの人なり」 Ⅰサムエル25:3 明治元訳聖書
「その男の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言った。妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で振る舞いが粗野であった。彼はカレブ人であった。」 聖書協会共同訳聖書
「因業おやじ」
頑固で欲深い人を「因業」という。「因業」は結果をもたらす「因」と、その原因となる行為「業」から成ることばで、それが前世の「悪行」と結びついて「頑固で意固地な性格」を意味するようになった。「頑固で意固地な性格」そのものは悪しきものではない。ただ、こんなことを考えるのは、「因業おやじ」と言われたくないだけのことなのだ。
(†心のデボーション02505)
† 心のデボーション 02506
「すべてヱホバを俟望むものよ雄々しかれ なんぢら心をかたうせよ」 詩篇31:24 明治元訳聖書
「すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。」 口語訳聖書
「五十一対四十九の法則」
「決まりごとは五十一対四十九のことが多い」。これはある心理学者のことばである。五十一と四十九では、その差はわずかで、どちらを選んでも正解といえる。この場合は、どちらが正解かということよりも、どちらかに決めることに意味があるのである。「心の強い人」とは、一つを選んで他を捨てるのではなく、一つを選んで他に心を残す人だと思う。
(†心のデボーション02506)
† 心のデボーション 02507
「彼らが主に事へ斷食したるとき、聖靈いひ給ふ『わが召して行はせんとする業の爲に、バルナバとサウロとを選び、別て』」 使徒13:2 大正文語訳聖書
「一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。」 口語訳聖書
「断食」
ある科学者の計算によると、断食によって体重の4割を失うと死の危険に直面するが、普通の体重の男性なら、40日間の断食には耐えられるという。信仰的な理由で、祈りのために断食をすることがある。しかし、不用意に長期の断食をするべきではない。
(†心のデボーション02507)
† 心のデボーション 02508
「わが恃みしところ わが糧をくらひしところのわが親しき友さへも我にそむきてその踵をあげたり」 詩篇41:9 明治元訳聖書
「わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。」 口語訳聖書
「いちゃもん」
言いがかりをつけることを「いちゃもん」という。「いちゃもん」は「いちゃつく」からきたことばで、「もめる、言い争う」の意味であるという。言いがかりは「いちゃつく」からも始まるということか。
(†心のデボーション02508)
† 心のデボーション 02509
「汝の神ヱホバの汝に賜ふ地において若汝の兄弟の貧き人汝の門の中にをらばその貧しき兄弟にむかひて汝の心を剛愎にする勿れまた汝の手を閉る勿れ 」 申命記15:7 明治元訳聖書
「あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。」 口語訳聖書
「手を開く」
「手を開く」は、貧しい兄弟必要としているものを貸し与えることである。その時、大切なことは、心が「開かれる」ことです。「心を開く人」は「進んで、充分に」「物惜しみしないで」、「心に未練をもたないで」与える。「心を閉じる人」は「手も閉じる」ものである。「手は開く」が「心は閉じる」こともあり、「心は開く」が「手は閉じる」こともある。いずれも、愛が閉ざされているのである。
(†心のデボーション02509)
† 心のデボーション 02510
「心せよ、若し互に咬み食はば相共に亡されん」 ガラテヤ5:15 大正文語訳聖書
「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」
「互いに滅ぼす」
「かみ合う δάκνω」は「咬みつく」で、二人が互いに咬みつくなら、互いに「滅ぼされる ἀναλίσκω (焼き尽くす、使いつくす、消尽する、絶滅する)」。いがみ合う二人は互いの存在を焼き尽くし、消費し尽くしてしまう。
(†心のデボーション02510)
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