心のデボーション359

デボーション1
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心のデボーション3581

「なんぢら互にはかれ つひに徒勞(むなしく)ならん なんぢら言をいだせ遂におこなはれじ そは神われらとともに在せばなり」 イザヤ8:10  明治元訳聖書

「ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。」 口語訳聖書

  「恐れるな」

はかりごとを為す者がいたとしても恐れるな。それは「成らない、徒勞(むなしく)に終わる」。脅しことばに怯むな。それは行われない。「神がわれわれと共におられる(インマヌエル᾽Εμμανουήλ)」からだ。(イザヤ8:10)

(心のデボーション3581)

心のデボーション3582

「凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。」 Ⅰコリント13:7  大正文語訳聖書

「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 口語訳聖書

 「耐え忍ぶ」

愛はすべてを耐え忍ぶ。「耐え忍ぶὑπομένω」は「下に、とどまる」の意である。(Ⅰコリント13:7)愛は相手がいつまでも、そのままでいられるように、下から支える力である。人は、上から相手を引き上げようとし、それが愛だと錯覚する。そして、愛につまづく。愛は相手の上に自分を置かない。相手の下に身を置き、何があっても去らず、そこにとどまり、存在し続ける意志である。

(心のデボーション3582)

心のデボーション3583

「なんぢら互にはかれ つひに徒勞ならん なんぢら言をいだせ遂におこなはれじ そは神われらとともに在せばなり」 イザヤ8:10  明治元訳聖書

「ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。」 口語訳聖書

 「はかりごと」

たくらむ者は「ともに計るβουλεύω」が、それは「成らない」。もっともらしい言葉を出すが、それは「行われない」。ラテン語諺に「Facile consilium damus aliis.他人には気軽に助言する」という。 ラテン語「consilium」は「忠告、助言」の意であるが、謀る者のはかりごとは、所詮「他人への気楽な忠告にすぎない。張り巡らされる「はかりごと(たくらみ)」を無力なものするのは、「われわれと共におられる神(᾽Εμμανουήλインマヌエル)」である。(イザヤ8:8  マタイ1:23) 

(心のデボーション3583)

心のデボーション3584

「その誡命はこれなり、即ち我ら神の子イエス・キリストの名を信じ、その命じ給ひしごとく互に相愛すべきことなり。」 Ⅰヨハネ3:23  大正文語訳聖書

「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。」 口語訳聖書

 「神の命令」

人生に生きがいを感じている人は身近に良い人間関係をもっている。人は自分が無視されるような環境で生きがいを見つけることは難しい。生きがいを見つけたいなら、人間関係を再構築することだ。愛は他の存在を注視する、神が人に与えられた唯一の命令である。自己発見は他者の存在に気づくことからはじまる。生きがいとは愛を見出すことに他ならない。

(心のデボーション3584)

心のデボーション3585

「彼等を男女に造りたまへり彼等の創造られし日に神彼等を祝してかれらの名をアダムと名けたまへり」 創世記5:2 明治元訳聖書

「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。

 「人間」

「アダム‎א‏ָד‏ָם」の名は「土」を意味するヘブライ語「אֲד‏ָמ‏ָהアダマー」(創世記22:7)と関連すると考えられ、「人、人間、人類」の意味である。この語から人を意味するラテン語homo(人の、人間的、人間らしい)が生まれ、英語humanの語源となった。Humanの根源と祝福は神にある。

(心のデボーション3585)

心のデボーション3586

「はかりごとなければ民たふれ 議士多ければ平安なり」 箴言11:14  明治元訳聖書

「指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。」 口語訳聖書

 「カウンセラー」

指導者がいなければ民は倒れる。しかし、助言者(βουλή)が多ければ民は安全である。英語訳聖書(NKJ)で「助言者」はカウンセラーcounselorである。英語counselorはラテン語consiliumを語源とし、①相談する、②助言するの意を含む。「共に考える」が基本概念である。よきカウンセラーがいれば、悪しき指導者の下にいても安全である。(箴言11:14) カウンセラーは、箴言12:20では「善をはかる人」である。

(心のデボーション3586)

心のデボーション3587

「人に與へよ、さらば汝らも與へられん。人は量をよくし、押し入れ、搖り入れ、溢るるまでにして、汝らの懷中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし」 ルカ6:38  明治元訳聖書

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」 口語訳聖書

 「与える」

生徒は教師から学ぶ。では教師は生徒から何を学ぶのだろうか。生徒から何も返ってこないというのは、教師が本当に与えることをしていないからではないか。大切なことは、自分に返ってきたものから自分が与えたものの内容を判断することである。愛を与えているつもりでも、それが返ってこないなら、その在り方を考えてみる必要がある。自分を与える人は、それによって自分が生かされていることを知っている。「あなたがたの量るその量り(μέτρον)で、自分にも量りかえされる(μετρέω)」(ルカ6:38)

(心のデボーション3587)

心のデボーション3588

「智慧ある者は之を聞て學にすすみ 哲者は智略をうべし」 箴言1:5  明治元訳聖書

「賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。」 口語訳聖書

 「智略」

「智略κυβέρνησις」は「指導、統御」の意であり、この語は「舵をあやつる」を意味するκυβερνάωから来ている。知恵はあっても、ものごとに対する「智略κυβέρνησις(指導、統御)」のない者は「賢者」ではない。「賢者」は聞く耳のある者で学に進み「智略κυβέρνησις」を得る。(箴言1:5)

(心のデボーション3588)

心のデボーション3589

「かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり」 マタイ5:16 大正文語訳聖書

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 口語訳聖書

 「立派な行い」

「立派なκαλός」は「健全な、美しい、良い、正しい」であり、「行いἔργον」は「仕事、行為、働き、業」である。「立派な行い」というものがあるのではない。人間は「立派な存在」ではない。ただ、その「仕事、行為、働き、業」が「健全で、美しく、良く、正しく」なされてあるとき、その人は「立派な行いの人」である。彼は「目的にかなう人」である。 人々は彼を見て「神」を「崇めるδοξάζω(思い起こす)」に違いない。(マタイ5:16)

(心のデボーション3589)

心のデボーション3590

「わがうちに憂慮のみつる時 なんぢの安慰わがたましひを喜ばせたまふ」 詩篇94:19  明治元訳聖書

「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」 口語訳聖書

 「取り乱す」

「心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:2 新共同訳聖書) 「苦の時に急ぐな」(日本聖公会訳聖書)、「災難の時に慌てるな」(聖書協会共同訳聖書)。思わぬ不幸の時にも、急がず、慌てず、取り乱すな。むしろ、「心を引き締めて、耐え忍ぶ」がよい。「急ぐσπεύδω」は「得ようとして骨折る」の意である。(詩篇94:19)

(心のデボーション3590)

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