心のデボーション3571
「その勤勞によりて厚く之を愛し敬へ。また互に相和ぐべし。」 Ⅰテサロニケ5:13 大正文語訳聖書
「彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。」 口語訳聖書
「愛の途方もない豊かさ」
「彼らの働きを思って特に愛し敬いなさいἡγεῖσθαι αὐτοὺς ὑπερεκπερισσοῦ ἐν ἀγάπῃ」。(Ⅰテサロニケ5:13) 「また彼らの働きについては〔賢い同情的な〕評価をして、彼らに対してきわめて高い、最も愛に満ちた尊敬(ὑπερεκπερισσοῦ)を払いなさい」祥訳聖書。ὑπερεκπερισσοῦは「途方もない豊かさ」の意である。愛の途方もない豊かさをもって互いの働きを思いなさい。
(心のデボーション3571)
心のデボーション3572
「地はおのづから實を結ぶものにして、初には苗、つぎに穗、つひに穗の中に充ち足れる穀なる。」 マルコ4:28 大正文語訳聖書
「地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。」 口語訳聖書
「自ずからの実」
庭で万両の実が熟した。聖書は「地は人手によらず実をならせる」という。(マルコ4:28) 地は自ずから実を結ぶ。「人手によらずαὐτόματος」は「自ら」と「熱望する」という二つの言葉からなる。地が実をならせるのは、地自らが、それを熱望した結果である。「自らの熱望」のないところでは、「自ずからの実」は結ばれない。
(心のデボーション3572)
心のデボーション3573
「かれ心のうちにいふ 神はわすれたり神はその面をかくせり神はみることなかるべしと」 詩篇10:11 明治元訳聖書
「彼は心のうちに言う、「神は忘れた、神はその顔を隠した、神は絶えて見ることはなかろう」と。」 口語訳聖書
「見落とす」
悪をなす者は心の中で、「神は忘れた、神はその顔を隠した、神は絶えて見ることはなかろう」と言う。(詩篇10:11) 「忘れるἐπιλανθάνομαιLXX」は「見落とす、見過ごす」の意。だが、「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」(マタイ12:20)神は、いかなる地の悪を見落とされることは決してない。
(心のデボーション3573)
心のデボーション3574
「彼いひけるは往て外より鄰の人々より器を借よ空たる器を借るべし少許を借るなかれ」 Ⅱ列王4:3 明治元訳聖書
「彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。」 口語訳聖書
「からの器」
充たされるには、まず、器をからにする必要がある。常に何かに追われるようなあわただしさに身を置くと、つまらないことを考える暇もないが、物事の深みにとどくこともなくなるようだ。自分をただ受けるだけの「からの器」にする時間は、作ろうとしなければできない。「ありのままの自分」には、いつも「からっぽ」の部分があって、それがうまく機能しているようなのである。
(心のデボーション3574)
心のデボーション3575
「茲にミデアン人アマレク人および東方の民相集まりて河を濟りヱズレルの谷に陣を取しが」 士師6:33 明治元訳聖書
「時にミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民がみな集まってヨルダン川を渡り、エズレルの谷に陣を取ったが、」 口語訳聖書
「エズレル」
エズレルはスドラエロン平原の東端の肥沃な地で、その名は「神は種蒔かれる」の意である。しかし、その豊かさのゆえに戦いが絶えなかった。ギデオンは、この地でミデヤン人と戦い、サウルはペリシテ人と戦った。(士師7章 Ⅰサムエル29章) 人は祝福の地を奪おうとするが、祝福の神に来ようとはしない。
(心のデボーション3575)
心のデボーション3576
「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書
「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 口語訳聖書
「それぞれに」
他人のことを「考えるσκοπέω」は「注視する、吟味する」の意。ものごとの「見方」は「めいめい」になされ、それぞれを吟味することにはじまる。他人への気遣いは、その人そのものを考察し、吟味することから生まれる。(ピリピ2:4)
(心のデボーション3576)
心のデボーション3577
「愛する者よ、汝らを試みんとて來れる火のごとき試煉を異なる事として怪しまず、」 Ⅰペテロ4:12 大正文語訳聖書
「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、」 口語訳聖書
「窯変」
陶磁器が火の加減によって窯の中で変化するのを「窯変」という。窯から取り出してみると、色やかたちが変化して、思わぬ作品に仕上がっている。「火変」と書いて「ひがわり」ともいう。試練(πειρασμός)は神の「窯」である。「燃えさかる火」によって、思わぬ作品に仕上がる。この時「窯」をのぞけば、ダニエルのように、私と共に「主」の姿のあるのをみるだろう。(Ⅰペテロ4:12)
(心のデボーション3577)
心のデボーション3578
「是においてその監督と州牧等國事につきてダエルを訟ふる隙を得んとしたりしが何の隙をも何の咎をも見いだすことを得ざりき其は彼は忠義なる者にてその身に何の咎もなく何の過失もなかりければなり」 ダニエル6:4 明治元訳聖書
「そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。」 口語訳聖書
「ただ一つを除いて」
ダリヨスの総監および総督らは、ダニエルを訴える口実を得ようとして調べた。しかし、ダニエルの内に宿っていた「優れた霊πνεῦμα ἅγιον ἐν αὐτῷ」(ダニエル6:3)のゆえに、ただ一つ、真の神を礼拝することを除いて、「訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった」。(ダニエル6:4)キリスト者は、内にいます「聖霊πνεῦμα ἅγιον」のゆえに、 唯一の神を礼拝することを除いて、他の理由で訴えられることのない者でなければならない。
(心のデボーション3578)
心のデボーション3579
「また人は燈火をともして升の下におかず、燈臺の上におく。かくて燈火は家にある凡ての物を照すなり」 マタイ5:15 大正文語訳聖書
「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。」 口語訳聖書
「おのれに有する光」
私たちは「世の光τὸ φῶς τοῦ κόσμου」として、まず、「家にある凡ての物を照す」光でありたい。それなくして「世を照らす」ことは叶わない。(マタイ5:15)「しかし、他の人にまねて照らすのではない。おのれに有する光が、自然に外に出るようにならねばならぬ」(新渡戸稲造「信仰雑感」)
(心のデボーション3579)
心のデボーション3580
「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1 明治元訳聖書
「はじめに神は天と地とを創造された。」 口語訳聖書
「始め」
Aller Anfang ist schwer.(何事も始めは難しい。ドイツ語諺) 聖書は「Am Anfang schuf Gott Himmel und Erde. はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)から始まる。この「始めἐν ἀρχῇ」に立つころができれば、何事もそこから動き始め、難しいことは何もない。
(心のデボーション3580)
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