心のデボーション356

デボーション1
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心のデボーション3551

「明哲はこれを持つものに生命の泉となる 愚なる者をいましむる者はおのれの痴是なり」 箴言16:22  明治元訳聖書

「知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。」 口語訳聖書

 「大いなる知恵」

ラテン語格言に「Fortuna adversa virum magnae sapientiae non terret.逆境(Fortuna adversa反対の運命)は大いなる知恵をもつ者を脅かさない。」とある。大いなる知恵(magnae sapientiae)は逆境にこそ姿を現す。

科学を意味するscienceはラテン語scientia(知恵、学、理論) からきている。

「知恵はこれを持つ者に命の泉となるπηγὴ ζωῆς ἔννοια τοῖς κεκτημένοις」(箴言16:22) 知恵は知るだけでは業をなさず、これをκτάομαι(身に着ける、手に入れる)者に「いのちの泉」となって湧き上がる。

(心のデボーション3551)

心のデボーション3552

「ダビデ、アビヤタルにいふかの日エドミ人ドエグ彼處にをりしかば我かれが必らずサウルにつげんことを知れり我汝の父の家の人々の生命を喪へる源由となれり」 Ⅰサムエル22:22 明治元訳聖書

「ダビデはアビヤタルに言った、「あの日、エドムびとドエグがあそこにいたので、わたしは彼がきっとサウルに告げるであろうと思った。わたしがあなたの父の家の人々の命を失わせるもととなったのです。」 口語訳聖書

 「罪を負う人」

サウル王がダビデを殺害しようとしていることが明らかになったとき、ダビデは逃れて祭司アビメレクを訪ねる。サウル王はダビデを迎え入れたアビメレクの行為を謀反と決めつけ、アビメレクとその一族82人を虐殺する。責められるべきは暴虐の王サウルであった。しかし、ダビデはそれを口にしないばかりか、罪は自分にあると告白する。罪を自分に負える人だけが、「神がどんなことをされるか」を待つことができる。

(心のデボーション3552)

心のデボーション3553

「凡そイエスを神の子と言ひあらはす者は、神かれに居り、かれ神に居る。」 Ⅰヨハネ4:15  

「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」 口語訳聖書

 「内なる神」

「その人は神のうちにいるのであるαὐτὸς ἐν τῶ θεῶ」。(Ⅰヨハネ4:15) 「ἐν θεός 内なる神」はenthusiasm (熱狂)、insupiration, inspire (霊感、息を吹き込む)の語源である。人は内にいます神によって神を知る。

(心のデボーション3553)

心のデボーション3554

「邪曲なる心ある者はさいはひを得ず その舌をみだりにする者はわざはひに陷る」 箴言17:20  明治元訳聖書

「曲った心の者はさいわいを得ない、みだりに舌をもって語る者は災に陥る。」 口語訳聖書

 「曲がった心」

「好きになれない人」というのは、そういう人が実際にいるのではなく、どうしても好きになれないところをその人の中に探した結果ではないか。(箴言17:20)  曲がった心は素直でなく、まっすぐに道を歩こうとしない。(箴言11:20) 幸いしか見ようとしないのも「曲がった心」である。「曲がった心σκληροκάρδιος(心の頑迷な者、強情、無情)」はへそ曲がりとは少し違うようだ。

(心のデボーション3554)

心のデボーション3555

「これはイエス己が體の宮をさして言ひ給へるなり。」 ヨハネ2:21  大正文語訳聖書

「イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。」 口語訳聖書

 「ノートルダム大聖堂」

ゴシック建築 Gothic Architecture(Γοτθική Αρχιτεκτονική)のゴシックGothicは「ゴート人」から来て「ゴート人のもたらすもの」の意であり、当初は「蔑称」であったが、「ゴート人とともに運ばれてきた古代中世のすべてのイメージ、概念、技術、芸術のすべてをあらわすものとなった。2019年4月15日に大火災にあったパリのノートルダム大聖堂はゴシック建築の最高傑作の一つと言われる。

(心のデボーション3555)

心のデボーション3556

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」 口語訳聖書

 「神と偕に」

「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1) 「共に」を漢訳聖書 新約全書美華書店1863年は「偕神」とし、明治元訳聖書は「道は神と偕にあり」と訳す。「偕」は「行動を共にする」の意で、二者がならんでいるさまを示す。ὁ λόγοςは神と完全に一致し、偕にあった。神は御言葉と偕にあり、御言葉のうちに完全に御自身を現わされる。

(心のデボーション3556)

心のデボーション3557

「これ體のうちに分爭なく、肢々一致して互に相顧みんためなり」 Ⅰコリント12:25  大正文語訳聖書

「それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。」 口語訳聖書

 「キリストの教会」

教会では問題のある人が牧師を独占し、問題のない人に羨望や嫉妬の感情を生じさせることがある。そうなると、教会のもつ治癒力が働かなくなり、問題をもった人も行きづまってしまう。問題をもっている人を含めた全体的な関係を見ていくことが大切である。一人の人に徹底的にかかわれてこそ本当の集団であり、また、一人にかかわることは、すべての人にかかわることでもなければならない。互いにいたわり合うところにキリストの教会がある。

(心のデボーション3557)

心のデボーション3558

「萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」 ヨハネ1:3  大正文語訳聖書

「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」 口語訳聖書

 「これに由りて成り」

「すべてのものは、これによってできたπάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο」を永井直治訳聖書は「すべてのもの、彼によりて刱(はじ)まれり」と訳す。(ヨハネ1:3) 「刱」は刀で素材に枠型をつくり始めるの意である。永井直治は神のことばが創造の枠型を刻みはじめ、「刱(はじ)まりたる物に、一つとして彼を離れて刱(はじ)まりしはなし。」と訳す。ギリシャ語γίνομαιは「存在にいたらせる」である。

(心のデボーション3558)

心のデボーション3559

「また人は燈火をともして升の下におかず、燈臺の上におく。かくて燈火は家にある凡ての物を照すなり」 マタイ5:15 大正文語訳聖書

「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。」 口語訳聖書

 「灯火が消える」

「灯火λύχνος」は貧しい家でも消されることはなかった。灯火が消えるのは、その家が途絶えるときである。(マタイ5:15)「おのれの父母を罵るものはその燈火くらやみの中に消ゆべし」 箴言20:20 明治元訳聖書 「灯火」が消えるのは、人間的な心が失われた者のあかしであった。

(心のデボーション3559)

心のデボーション3560

「あるきめぐりて人の是非をいふ者は密事をもらす 口唇をひらきてあるくものと交ること勿れ」 箴言20:19  明治元訳聖書

「歩きまわって人のよしあしをいう者は秘密をもらす、くちびるを開いて歩く者と交わってはならない。」 口語訳聖書

 「他人の秘密」

歩き回って人のよしあしを言う者と交わるな。「お前だけに言うのだが」と言いながら他人の秘密を暴き立て、他人のところでこちらの秘密をばらまく。

(心のデボーション3560)

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