心のデボーション3541
「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17 大正文語訳聖書
「また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。」 口語訳聖書
「わが悦ぶ者」
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17口語訳聖書)は「漢訳聖書 新約全書美華書店1863年」は「此乃我之愛子、我所喜悅者也」と訳し、大正文語訳聖書は「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と訳す。「心にかなう者(εὐδοκέω「喜びとする、心にかなう」)」は漢字で「悦者」を用いる。「悦」は「心」+「兌」で「兌」はこどもの衣服を左右にわけてぬがすさまを示し、「悦」は心の結ぼれを分解して取り去ること」(「漢字源」学研)、「物事を分けて説き、神を喜ばす人の意」(角川新字源)である。
(心のデボーション3541)
心のデボーション3542
「彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり」 箴言31:26 明治元訳聖書
「彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。」 口語訳聖書
「憎らしい子」
母親であれば、いつでも子どもを愛するものだろうか。わが子を「憎らしい」と思ったくらいで、愛がないとはいえない。憎らしいと思えるほどに子どもが自分をもちはじめたと思えれば、それでよいのではないか。憎らしいと思える瞬間があるから、いとおしいと思える瞬間もある。その思いを大切にすることが母親の愛ではないか。憎くもいとおしくも感じなくなることが問題なのである。
(心のデボーション3542)
心のデボーション3543
「ゾロバベル、アビウデを生み、アビウデ、エリヤキムを生み、エリヤキム、アゾルを生み、」 マタイ1:13 大正文語訳聖書
「ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、」 口語訳聖書
「神のいのちの鎖」
イエスの系図の中で、アビウデ(ἀβιούδ マタイ1:13)以後の人物を旧約聖書に見出すことはできない。創世記5章のアダムの系図には、「アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、…アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」(創世記5:3-5)とあり、人は「~より生まれ、子を生み、~年生きて、死んだ」 と要約される。しかし、今や、名もなき人の名が語られるときが来た。世に生まれて誰とも知らぬ存在が無くてはならぬ神のいのちの鎖の一つとして記憶される。
(心のデボーション3543)
心のデボーション3544
「事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、愛をもて互に忍び」 エペソ4:2 大正文語訳聖書
「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、」 口語訳聖書
「まじめな人」
まじめな人が心を病むと、まじめに治そうとして、かえって症状を悪くしてしまうことがあります。肩から力を抜いてもっとルーズに生きてと心は訴えているのです。 だめな自分や怠けたい自分も認めてあげることです。「寛容μακροθυμία(辛抱、不屈)」ということばは、「長い」と「こころ」からなる合成語である。(エペソ4:2)気長につきあってみれば、ルーズさにもいいところがあり、毛嫌いすべきものでもありません。
(心のデボーション3544)
心のデボーション3545
「御子をもつ者は生命をもち、神の子をもたぬ者は生命をもたず。」 Ⅰヨハネ5:12 大正文語訳聖書
「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」 口語訳聖書
「御子のいのち」
「御子を持つ者ὁ ἔχων τὸν υἱὸν」は「いのちを持つ「ἔχει τὴν ζωήν」。「御子のいのち」は「永遠のいのち」である。キリスト者はイエスに結ばれ、その身にイエスのいのち、すなわち「永遠のいのち」に生きる者である。(Ⅰヨハネ5:12)
(心のデボーション3545)
心のデボーション3546
「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる權をあたへ給へり。」 ヨハネ1:12 大正文語訳聖書
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 口語訳聖書
「神の子となる特権」
イエスを受け入れ、その名を信じる者には、「神の子となる力(ἐξουσία)」が与えられる。新改訳聖書はἐξουσίαうぃ「特権」と訳す。明治元訳聖書は「彼を接その名を信ぜし者には權を賜ひて此を神の子と爲り」と訳し、「權」を「ちから」と読ませる。単なる約束ではなく、実現するちからを伴う特権である。(ヨハネ1:12)
(心のデボーション3546)
心のデボーション3547
「貧者はつねに忘らるるにあらず苦しむものの望はとこしへに滅ぶるにあらず」 詩篇9:17 明治元訳聖書
「悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。」 口語訳聖書
「ひょうたんの中のバナナ」
ひょうたんを使ってサルをつかまえる方法があるという。ひょうたんにサルの手がやっと入るくらいの穴をあけて、中にバナナを入れる。穴は小さくて、サルがバナナをつかむと手は抜けない。マゴマゴしているところをつかまえるのだという。人の悩みはひょうたんの中のバナナのようなものかもしれない。あきらめて手を離せば自由になれる。しかし、それでは空腹はいやされず、だからあきらめきれない。捕らえられるまで、そうしていたいという気分もありうる。
(心のデボーション3547)
心のデボーション3548
「然どもわが神ヱホバよ僕の祈祷と懇願を顧みて其號呼と僕が今日爾のまへに祈る祈祷を聽たまへ」 Ⅰ列王8:28 明治元訳聖書
「しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。」 口語訳聖書
「お茶断ち」
アイルランドに伝わる隠者の教えには、人里はなれて寂しいところで神に仕える「緑の犠牲」、家や友人から離れる「白の犠牲」、信仰のためにいのちを投げ出す「赤の犠牲」がある。私がお世話になった老信徒は特別な祈りのためにはお茶断ちをした。
(心のデボーション3548)
心のデボーション3549
「また人は燈火をともして升の下におかず、燈臺の上におく。かくて燈火は家にある凡ての物を照すなり」 マタイ5:15 大正文語訳聖書
「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」 新共同訳聖書
「ともし火」
「ともし火」は升の中に閉じ込めるものではない。棚の燭台の上に置く。「ともし火」があっても、その置く場所を間違えれば、何の役にもたたない。「ともし火」の置処を見出す必要がある。
(心のデボーション3549)
心のデボーション3550
「汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備へ給はん。」 Ⅰコリント10:13 大正文語訳聖書
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」 口語訳聖書
「試練」
「子よ、主のもとで仕えたいのであれば、お前の心を試練に備えよ。Τέκνον, εἰ προσέρχῃ δουλεύειν κυρίῳ, ἑτοίμασον τὴν ψυχήν σου εἰς πειρασμόν·」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:1 フランシスコ会訳聖書) 何一つ試練(πειρασμός)を受けずに神に仕えることはできない。しかし、その試練が神から来るのか、それとも罪から来るのかは注意深く分けなければならない。そこのことが分かれば神からの試練は大いなる祝福への道筋であと知るだろう。(Ⅰコリント10:13)
(心のデボーション3550)
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