心のデボーション3521
「されば凡ての惡意、すべての詭計・僞善・嫉妬および凡ての謗を棄てて、」 Ⅰペテロ2:1 大正文語訳聖書
「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、」 口語訳聖書
「偽善」
「人々の前で己を偽るな。お前の口を慎むがよい。μὴ ὑποκριθῇς ἐν στόμασιν ἀνθρώπων καὶ ἐν τοῖς χείλεσίν σου πρόσεχ」 (旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:29 新共同訳聖書)「人々の前で己を偽るμὴ ὑποκριθῇς」は「偽善をなすな」で、偽善とは「人々の前で己を偽る」行為である。偽善者は神の前でも己を偽る。(Ⅰペテロ2:1)
(心のデボーション3521)
心のデボーション3522
「ああ神よなんぢはわが神なり われ切になんぢをたづねもとむ 水なき燥きおとろへたる地にあるごとくわが霊魂はかわきて汝をのぞみ わが肉體はなんぢを戀したふ」 詩篇63:1 明治元訳聖書
「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。」 口語訳聖書
「早朝の祈り」
詩篇の表題によれば、ダビデはユダの荒野にいる。おそらく、息子アブシャロムの反乱から逃れたときのことであろう。父と息子の間に殺意がうまれていた。「水のない、砂漠の衰え果てた地」で、夜ふけてダビデは床の上におきあがり「主」を思い求める。「求めるשׁחר(LXX ὀρθρίζω「朝早くに」)」ということばの語源は「あけぼの」の意味がある。ダビデは自分と息子アブシャロムが「朝早くから、主とともにいる」ことを祈った。(詩篇63:1)
(心のデボーション3522)
心のデボーション3523
「愛には虚僞あらざれ、惡はにくみ、善はしたしみ」 ロマ12:9 大正文語訳聖
「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、」 口語訳聖書
「愛に虚僞あらざれ」
「愛には虚僞あらざれἡ ἀγάπη ἀνυπόκριτος」ロマ12:9 大正文語訳聖書。「偽りがないἀνυπόκριτος」は「偽善をしない」の意。愛は自ら偽らず、善をつくろうことをしない。偽善の愛はみのることがない。
(心のデボーション3523)
心のデボーション3524
「無知者はしることなく愚なるものは之をさとらず」 詩篇92:6 明治元訳聖書
「鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。」 口語訳聖書
「まぬけ者」
「無知者בַּעַר(LXX ἄφρων「分別のない、愚か者」)」は口語訳聖書「鈍い者」、新改訳聖書「まぬけ者」と訳す。神の計らいは深く、「まぬけ者」はそれを知ろうとしない。では、万事ぬかりのない「利口者」にそれがわかるかといえば、そうでもない。詩人の「まぬけ者」とは「ものごとに無感覚な人」を指す。うれしいことを喜び、悲しいことに泣くことのできる人は、たとえすることにどこか間の抜けたところがあっても、神の計らいの深みを知っている。そういう「まぬけ者」でいたい。
(心のデボーション3524)
心のデボーション3525
「温柔き舌は生命の樹なり 悖れる舌は霊魂を傷ましむ」 箴言15:4 明治元訳聖書
「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。」 口語訳聖書
「優しい舌」
「優しい舌は命の木である」。(箴言15:4 口語訳聖書)「優しい舌ἴασις γλώσσης」は「癒しの舌」の意。「傷つき病める心を癒すことば」は命を生み出す「いのちの木」である。
(心のデボーション3525)
心のデボーション3526
「邪曲なる人は惡を掘る その口唇には烈しき火のごときものあり」 箴言16:27 明治元訳聖書
「よこしまな人は悪を企てる、そのくちびるには激しい火のようなものがある。」 口語訳聖書
「よこしま」
「邪曲なる人は惡を掘るἀνὴρ ἄφρων ὀρύσσει ἑαυτῷ」(箴言16:27)LXXは「思慮のない愚か者は自分自身の悪を掘り起こす(掘り返す)」である。彼らは眠っている悪を掘り返し(ὀρύσσω)、目覚めさせるのである。
(心のデボーション3526)
心のデボーション3527
「美しき婦のつつしみなきは金の環の豕の鼻にあるが如し」 箴言11:22 明治元訳聖書
「美しい女の慎みがないのは、金の輪の、ぶたの鼻にあるようだ。」 口語訳聖書
「きれいな友人」
女の子が「きれいな友人を連れてきます」といって、本人よりきれいだったためしがないというのがもっぱらの説である。「君のほうがきれいじゃない」といえば「そうかしら、彼女のほうがずっと美人よ」と答えながらもうれしそうだ。しかし、彼女がたしなみがないと思ってはなるまい。「美しいがたしなみがない女」とは、美しければ何でも許され、自分だけにその資格があると思っている。つまり、自分以外にきれいなものなどないと本当に考えているようなのである。
(心のデボーション3527)
心のデボーション3528
「相互に心を同じうし、高ぶりたる思をなさず、反つて卑きに附け。なんぢら己を聰しとすな。」 ロマ12:16 大正文語訳聖書
「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。」 口語訳聖書
「卑きに附け」
「低い者たちと交わるがよい」は「自分より身分の低い、劣った者と交われ」の意ではない。それは一種の高ぶりである。「卑しい者ταπεινός」は「へりくだった者」であり、「身を低くする、謙虚さ」の意である。「交わるσυναπάγω」は「一緒に行く、交わる」の意である。「卑きに附けτοῖς ταπεινοῖς συναπαγόμενοι」は「へりくだった者と共にあれ(一緒に行け)」である。(ロマ12:16)
(心のデボーション3528)
心のデボーション3529
「汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし」 マタイ5:14 大正文語訳聖書
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」 口語訳聖書
「メノーラー」
ユダヤ人の会堂シナゴーグには中央の聖櫃の上にメノーラー menorah と呼ばれる7本に枝分かれした燭台が置かれ、消えることのない火がともされ、メノーラーの光は「ネール・タミード」と呼ばれた。ユダヤ人は、その光の中で学び、祈りをした。メノーラーはエルサレムの神殿に立っていたもので、エルサレムの神殿が破壊された時にはローマ兵たちが略奪して運び出す様子がローマのティトゥス凱旋門に浮き彫りにされている。メノーラーは現在のイスラエルの国家紋章になっている(中央にメノーラーがあり周囲をオリーブの葉が囲む)。
略奪することも、消すこともできない光がある。
(心のデボーション3529)
心のデボーション3530
「朝まだき暗き程に、イエス起き出でて、寂しき處にゆき、其處にて祈りゐたまふ。」 マルコ1:35 大正文語訳聖書
「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」 口語訳聖書
「寂しき處」
「適当な時を求めて自分のうちに退き、しばしば、神のいつくしみ深きを考えなさい」(トマス・アケンピス『キリストにならいて』より) 主も「朝はやく、夜の明けるよほど前」に「寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)「寂しい所εἰς ἔρημον τόπον」は「荒野」である。人がひとり神とお会いする所である。
(心のデボーション3530)
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