心のデボーション2_010

デボーション2
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心のデボーション0091

「人の家に入らば平安を祈れ」 マタイ10:12 大正文語訳聖書
「人の家にいらば其平安(やすき)を問(とへ)」 明治元訳聖書
「家に入る時、此家に平安あれかしと云ひて之を祝せよ」 ラゲ訳聖書
「その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい」 口語訳聖書
εἰσερχόμενοι δὲ εἰς τὴν οἰκίαν ἀσπάσασθε αὐτήν

 「一挨一拶」

今の人は挨拶ができないという。「挨拶ἀσπάζομαι」には「歓迎する、~を喜ぶ」の意味がある。「挨拶」の「挨」は「そばにくっつく」、「拶」は「ぎりぎりに近づく」で「そばに身をすりよせ、近寄ることをさす。難しいのは、相手とぎりぎりのところに近づき、そこで立ちどまって礼をする、そのことである。

禅宗の「一挨一拶」は師匠が弟子との問答からその心の深さを試すことを言う。(マタイ10:12)

ルカ10:6

καὶ ἐὰν ἐκεῖ ᾖ υἱὸς εἰρήνης, ἐπαναπαήσεται ἐπ᾽ αὐτὸν ἡ εἰρήνη ὑμῶν· εἰ δὲ μή γε, ἐφ᾽ ὑμᾶς ἀνακάμψει.

口語訳聖書

もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。

その家に入って「平安を祈る」と、家人が「平安の子」であれば、「あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまり」、「もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来る」。

心のデボーション0092

「父母の物を竊みて罪ならずといふ者は滅す者の友なり」 箴言28:24 明治元訳聖書
「父や母の物を盗んで「これは罪ではない」と言う者は、滅ぼす者の友である。」 口語訳聖書
「父母のものをかすめて『これは罪ではない』と言う者は滅ぼす者の仲間だ」 新共同訳聖書

גֹּוזֵ֤ל׀ אָ֘בִ֤יו וְאִמֹּ֗ו וְאֹמֵ֥ר אֵֽין־פָּ֑שַׁע חָבֵ֥ר ה֝֗וּא לְאִ֣ישׁ מַשְׁחִֽית׃

 「滅ぼす者の友」

犬はかわいい。だが私の知る犬はドックフードに関心があってもこちらの悩みには無関心である。「滅ぼす者の友」とは私の犬のように自分を満たすことには関心があっても人の苦悩には無関心な者のことだろうか。彼らは父母のものを掠めても「罪」などとは思わない。

「滅びをもたらす者の仲間」(新改訳聖書)、「滅ぼす者の友」(口語訳聖書)、「滅ぼそうとたくらむ者の仲間」(新共同訳聖書)、「強盗の仲間」(ラゲ訳聖書)である。

だが、不思議なことに「滅びをもたらす者の父母」は息子、娘のそれを「罪」とは感じていないようなのである。奪われても、奪われても、与えてしまう。

箴言19:26 

מְֽשַׁדֶּד־אָ֭ב יַבְרִ֣יחַ אֵ֑ם בֵּ֝֗ן מֵבִ֥ישׁ וּמַחְפִּֽיר׃

ὁ ἀτιμάζων πατέρα καὶ ἀπωθούμενος μητέρα αὐτοῦ καταισχυνθήσεται καὶ ἐπονείδιστος ἔσται 

口語訳聖書

父に乱暴をはたらき、母を追い出す者は、恥をきたらし、はずかしめをまねく子である。

箴言13:20

הָלֹוךְ אֶת־חֲכָמִ֣ים וַחֲכָם וְרֹעֶ֖ה כְסִילִ֣ים יֵרֹֽועַ׃

ὁ συμπορευόμενος σοφοῖς σοφὸς ἔσται ὁ δὲ συμπορευόμενος ἄφροσι γνωσθήσεται 

口語訳聖書

知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。

心のデボーション0093

「視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る」 マタイ2:9 大正文語訳聖書
「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。」 口語訳聖書

「彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった」 バルバロ訳聖書

οἱ δὲ ἀκούσαντες τοῦ βασιλέως ἐπορεύθησαν καὶ ἰδοὺ ὁ ἀστήρ, ὃν εἶδον ἐν τῇ ἀνατολῇ, προῆγεν αὐτούς, ἕως ἐλθὼν ἐστάθη ἐπάνω οὗ ἦν τὸ παιδίον.

 「見よ、驚くことに」

本節も「ἰδοὺ見よ、驚くことに」に導かれる。自分の人生には驚きがないというのは正確な言い方ではない。「驚き」は何気ないもののなかに、さりげなくされているからである。どの人生のどの瞬間にも「驚き」がある。

「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおいでになりますか」と問う東の博士たちに、ヘロデ王はエルサレムの祭司長、律法学者たちを集め調べさせ、それがベツレヘムであることを突き止めた。そこで東の博士たちはベツレヘムに向かて出発した。しかし、彼らを導いたのは祭司長、律法学者による調査ではなく、彼らが東方の祖国で見た「先立って進む星」であった。(マタイ2:1-9)

「先立って進む προάγω」は「先手を打つ」である。神のうたれる「先手」の妙に驚かずにはいられない。「驚き」のない信仰は本物ではない。驚きがないのではなく、いちいち驚くことを忘れているのである。

詩篇25:12 

מִי־זֶ֣ה הָ֭אִישׁ יְרֵ֣א יְהוָ֑ה י֝וֹרֶ֗נּוּ בְּדֶ֣רֶךְ יִבְחָֽר׃

τίς ἐστιν ἄνθρωπος ὁ φοβούμενος τὸν κύριον νομοθετήσει αὐτῷ ἐν ὁδῷ ᾗ ᾑρετίσατο 

口語訳聖書

主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。

心のデボーション0094

「主人かれを呼びて言ふ『わが汝につきて聞く所は、これ何事ぞ、務の報告をいだせ、汝こののち支配人たるを得じ』」 ルカ16:2 大正文語訳聖書

「そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。」 口語訳聖書

「管理の明細を提出してもらおう。もうお前を管理人にしておくわけにはいかない」 フランシスコ会訳聖書

καὶ φωνήσας αὐτὸν εἶπεν αὐτῶ, τί τοῦτο ἀκούω περὶ σοῦ; ἀπόδος τὸν λόγον τῆς οἰκονομίας σου, οὐ γὰρ δύνῃ ἔτι οἰκονομεῖν.

 「務(つとめ)の報告」

ある主人の財産を管理する僕が財産を乱費していた。それを知った主人は僕を呼び、「務の報告(会計報告)を出すように命じた。(ルカ16:1-2)

「務(つとめ)の報告」はοἶκονομίαで、この語は 「οἶκος 家+νόμος法、秩序」の合成語で「知恵をもって家を治める」の意味である。英語economyの語源でもある。漢字「経済」の「経」は織物の縦糸をあらわす形で、縦糸が横糸とまとまりを生み出していくことから「すじみち、道理」をあらわす。

人は人生の収支(筋道)を出さなければならない。正しい人生には、その収支も筋道がとおっている。収支は合っているか。

伝道12:14 

ִּ֤י אֶת־כָּל־מַֽעֲשֶׂ֔ה הָאֱלֹהִ֛ים יָבִ֥א בְמִשְׁפָּ֖ט עַ֣ל כָּל־נֶעְלָ֑ם אִם־טֹ֖וב וְאִם־רָֽע׃

ὅτι σὺν πᾶν τὸ ποίημα ὁ θεὸς ἄξει ἐν κρίσει ἐν παντὶ παρεωραμένῳ ἐὰν ἀγαθὸν καὶ ἐὰν πονηρόν 

口語訳聖書

神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

心のデボーション0095

「汝盗むなかれ」 出エジプト20:15 明治元訳聖書
「あなたは盗んではならない」 口語訳聖書
「盗むな」 バルバロ訳聖書

לֹ֣֖א תִּֿגְנֹֽ֔ב׃

οὐ κλέψεις(出エジプト20:14)

 「剽窃(盗用)」

米国では一度「剽窃(盗用)Plagiarism」をした学者は、学者として「犯罪者」とみなされ、二度と学者として生きることはできない。「剽」は「かすめとる」の意味で、「剽窃」は、他人の説や文章を「かすめて盗む(κλέπτω)」行為である。(出エジプト20:15)LXXκλέπτωは「盗む」の意の他に「騙す、欺く、秘かにやる」の意味もある。すべて「盗み」である。(「あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。」レビ19:11)

「剽窃」は発覚するまではまったく姿をあらわさない、発覚すると二度と元には戻れない恐ろしい罪である。インターネットの世界は、「剽窃」があまりに巨大化して、何が「剽窃」かもわからなくなかわからなくなってしまったようだ。

箴言11:1 

מֹאזְנֵ֣י מִ֭רְמָה תֹּועֲבַ֣ת יְהוָ֑ה וְאֶ֖בֶן שְׁלֵמָ֣ה רְצֹונֹֽו׃

ζυγοὶ δόλιοι βδέλυγμα ἐνώπιον κυρίου στάθμιον δὲ δίκαιον δεκτὸν αὐτῷ

口語訳聖書

偽りのはかりは主に憎まれ、正しいふんどうは彼に喜ばれる。

ミカ6:10-11

ע֗וֹד הַאִשׁ֙ בֵּ֣ית רָשָׁ֔ע אֹצְר֖וֹת רֶ֑שַׁע וְאֵיפַ֥ת רָז֖וֹן זְעוּמָֽה׃
הַאֶזְכֶּ֖ה בְּמֹ֣אזְנֵי רֶ֑שַׁע וּבְכִ֖יס אַבְנֵ֥י מִרְמָֽה׃

μὴ πῦρ καὶ οἶκος ἀνόμου θησαυρίζων θησαυροὺς ἀνόμους καὶ μετὰ ὕβρεως ἀδικία  εἰ δικαιωθήσεται ἐν ζυγῷ ἄνομος καὶ ἐν μαρσίππῳ στάθμια δόλου 

口語訳聖書

わたしは悪人の家にある不義の財宝、のろうべき不正な枡を忘れ得ようか。不正なはかりを用い、偽りのおもしを入れた袋を用いる人をわたしは罪なしとするだろうか。

心のデボーション0096

「良き地に播かれしとは、御言をききて悟り、實を結びて、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍に至るものなり」 マタイ13:23  大正文語訳聖書
「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」 口語訳聖書
「沃壤(よきち)に播かれたる者は」 日本正教会訳聖書

ὁ δὲ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρείς, οὖτός ἐστιν ὁ τὸν λόγον ἀκούων καὶ συνιείς, ὃς δὴ καρποφορεῖ καὶ ποιεῖ ὃ μὲν ἑκατόν, ὃ δὲ ἑξήκοντα, ὃ δὲ τριάκοντα.

 「八十八夜の泣き霜」

畑も耕した。種もよい。芽も青く育った。しかし、「八十八夜の泣き霜」ということもある。これが来るとジャガイモの芽は黒く萎んで、泣いても泣ききれない。(「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の忘れ霜」ともいう)

「百倍、六十倍、三十倍」の実は、その後の天の恵みによる。そして「八十八夜の泣き霜」もまた「天」から降りてくる。百におごるな、三十に泣くな。

Ⅱコリント9:10 

ὁ δὲ ἐπιχορηγῶν σπόρον τῶ σπείροντι καὶ ἄρτον εἰς βρῶσιν χορηγήσει καὶ πληθυνεῖ τὸν σπόρον ὑμῶν καὶ αὐξήσει τὰ γενήματα τῆς δικαιοσύνης ὑμῶν·

口語訳聖書

種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。

心のデボーション0097

「地は皆爾の前にあるにあらずや請ふ我を離れよ爾若左にゆかば我右にゆかん又爾右にゆかば我左にゆかんと」 創世記13:9 明治元訳聖書
「全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。 口語訳聖書
「私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」 新改訳聖書

הֲלֹ֤א כָל־הָאָ֨רֶץ֙ לְפָנֶ֔יךָ הִפָּ֥רֶד נָ֖א מֵעָלָ֑י אִם־הַשְּׂמֹ֣אל וְאֵימִ֔נָה וְאִם־הַיָּמִ֖ין וְאַשְׂמְאִֽילָה

οὐκ ἰδοὺ πᾶσα ἡ γῆ ἐναντίον σού ἐστιν διαχωρίσθητι ἀπ᾽ ἐμοῦ εἰ σὺ εἰς ἀριστερά ἐγὼ εἰς δεξιά εἰ δὲ σὺ εἰς δεξιά ἐγὼ εἰς ἀριστεράLXX創世記13:9

 「別れ」

「爾若左にゆかば我右にゆかん又爾右にゆかば我左にゆかん」という別れがある。沙漠の民にとっては互いが生きるための自然な方法だった。それぞれが方角を決めて、右と左に進路をとり、その姿は砂漠に消えていく。別れても相手の存在は同じ沙漠のどこかに在ることを互いに想い、朝夕の祈りに忘れることはない。

創世記31:49 

וְהַמִּצְפָּה֙ אֲשֶׁ֣ר אָמַ֔ר יִ֥צֶף יְהוָ֖ה בֵּינִ֣י וּבֵינֶ֑ךָ כִּ֥י נִסָּתֵ֖ר אִ֥ישׁ מֵרֵעֵֽהוּ׃

καὶ ἡ ὅρασις ἣν εἶπεν ἐπίδοι ὁ θεὸς ἀνὰ μέσον ἐμοῦ καὶ σοῦ ὅτι ἀποστησόμεθα ἕτερος ἀπὸ τοῦ ἑτέρουLXX創世記31:49

口語訳聖書

またミズパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである、「われわれが互に別れたのちも、どうか主がわたしとあなたとの間を見守られるように。

彼らは別れる時、「われわれが互に別れたのちも、どうか主がわたしとあなたとの間を見守られるように」(創世記31:49)と言い交わし、その場所は「ミズパ(明治元訳聖書「觀望樓」、新共同訳聖書「見張り所」)」と呼ばれ、イスラエルの民が悔い改めて神に立ち返る祈りの場となった。(Ⅰサムエル7:5)

心のデボーション0098

「これ汝らが心を一つにし口を一つにして、我らの主イエス・キリストの父なる神を崇めん爲なり。」 ロマ15:6 大正文語訳聖書
「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。」 口語訳聖書

 「一つの口で」

パウロはローマ教会の信徒が「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」と祈る。(ロマ15:6)「声を合わせてἐν ἑνὶ στόματι」は「ἐν ἑνὶ一つの」+「στόματι口」である。相手と心を合わせるには「一つの口」であることが必要になる。共通の言葉で語れる人が仲間である。その人が自分と「一つの口」を持つかどうかは、話してみればすぐにわかる。

しかし、「異なる口」の「友」もいることをわすれてはならない。「異なる口」をもつ人も大切な友である。翻訳する苦労はあるが、そこにも知り合う喜びはある。いずれの「友」も楽しい。

箴言19:1 

טֹֽוב־רָ֭שׁ הֹולֵ֣ךְ בְּתֻמֹּ֑ו מֵעִקֵּ֥שׁ שְׂ֝פָתָ֗יו וְה֣וּא כְסִֽיל׃

LXX欠

口語訳聖書

正しく歩む貧しい者は、曲ったことを言う愚かな者にまさる。

心のデボーション0099

「磐間にをり 斷崖の匿處にをるわが鴿よ われに汝の面を見させよ なんぢの聲をきかしめよ なんぢの聲は愛らしく なんぢの面はうるはし」 雅歌2:14 明治元訳聖書

「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」 口語訳聖書

יֹונָתִ֞י בְּחַגְוֵ֣י הַסֶּ֗לַע בְּסֵ֨תֶר֙ הַמַּדְרֵגָ֔ה הַרְאִ֨ינִי֙ אֶת־מַרְאַ֔יִךְ הַשְׁמִיעִ֖ינִי אֶת־קֹולֵ֑ךְ כִּי־קֹולֵ֥ךְ עָרֵ֖ב וּמַרְאֵ֥יךְ נָאוֶֽה׃ 

καὶ ἐλθὲ σύ περιστερά μου ἐν σκέπῃ τῆς πέτρας ἐχόμενα τοῦ προτειχίσματος δεῖξόν μοι τὴν ὄψιν σου καὶ ἀκούτισόν με τὴν φωνήν σου ὅτι ἡ φωνή σου ἡδεῖα καὶ ἡ ὄψις σου ὡραία LXX雅歌2:14

 「のっぺらぼう」

小泉八雲の『怪談』に「むじな」という話がある。ある夜、江戸赤坂の紀伊国坂を一人の商人が通りかかると、道ばたに若い女がしゃがんで泣いている。心配して声をかけると、振り向いた女の顔は目も鼻も口もない「のっぺらぼう」だった。驚いた商人は逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込むと、蕎麦屋の亭主が「どうしましたか」と聞く。商人が今見た「のっぺらぼう」の話をしようとすると、蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と振りむく。その顔も「のっぺらぼう」だった。驚いた商人は気を失うが、その途端に蕎麦屋の明かりが消えた。全ては狢(むじな)がしたことだった。

何でも一応こなすが、これといった特徴のない人を「のっぺらぼう」という。普段は気づかないが、改めて「こんな顔ですかい」と振り向かれると、それなりに怖い。

自分を隠さないことだ。「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」と言ってくれる友もいる。

心のデボーション0100

「彼は我らの平和にして、己が肉により、樣々の誡命の規より成る律法を廢して、二つのものを一つとなし、怨(うらみ)なる隔(へだて)の中籬(なかがき)を毀ち給へり」 エペソ2:14 大正文語訳聖書
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、」 口語訳聖書
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」 新改訳聖書
「実にキリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き」 フランシスコ会訳聖書

αὐτὸς γάρ ἐστιν ἡ εἰρήνη ἡμῶν, ὁ ποιήσας τὰ ἀμφότερα ἓν καὶ τὸ μεσότοιχον τοῦ φραγμοῦ λύσας, τὴν ἔχθραν, ἐν τῇ σαρκὶ αὐτοῦ,

 「隔ての壁」

「隔ての壁τὸ μεσότοιχον τοῦ φραγμοῦ」はエルサレム神殿の異邦人の庭と神殿の間を区切った壁で、異邦人はそれ以上神殿に近づくことが禁止された。ユダヤ人と異邦人を区別する壁である。主イエスは「ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊された」。(エペソ2:14)

悲しいことに、差別という「隔ての壁τὸ μεσότοιχον τοῦ φραγμοῦ」は、人の心に出現する。しばしば、その厚く高い「内なる壁」は体の一部として吸収され、そこにあることすらわからない。

内なる壁に気づくのは外なる壁による。人は差別されることによって、はじめて差別する者であることに気づく。

キリストは、内なる壁を抱え込んだ私をまるごと愛された。それで私もまた、壁を含んだ自分をそのまま抱きしめよう。十字架の痛みが伝わってきた時、壁は自ら崩れ落ちていく。

エペソ2:15 

τὸν νόμον τῶν ἐντολῶν ἐν δόγμασιν καταργήσας, ἵνα τοὺς δύο κτίσῃ ἐν αὐτῶ εἰς ἕνα καινὸν ἄνθρωπον ποιῶν εἰρήνην,

口語訳聖書

数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

エペソ4:16 

ἐξ οὖ πᾶν τὸ σῶμα συναρμολογούμενον καὶ συμβιβαζόμενον διὰ πάσης ἁφῆς τῆς ἐπιχορηγίας κατ᾽ ἐνέργειαν ἐν μέτρῳ ἑνὸς ἑκάστου μέρους τὴν αὔξησιν τοῦ σώματος ποιεῖται εἰς οἰκοδομὴν ἑαυτοῦ ἐν ἀγάπῃ.

口語訳聖書

また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

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