心のデボーション3501
「慈悲ある者は己の霊魂に益をくはへ 殘忍者はおのれの身を擾はす」 箴言11:17 明治元訳聖書
「いつくしみある者はおのれ自身に益を得、残忍な者はおのれの身をそこなう。」 口語訳聖書
「霊魂に益」
「いつくしみある者はおのれ自身に益を得」(箴言11:17)「おのれ自身נֶפֶשׁ LXXψυχή」は明治元訳聖書「己の霊魂」、新共同訳聖書「じぶんの魂」である。ヘブライ語נֶפֶשׁは「たましい、自己、いのち」を意味する。「慈しみחֶסֶד
(誠実、善)LXX」ある者は自分の魂を益する。
(心のデボーション3501)
心のデボーション3502
「なんぢはわが歩むをもわが臥をもさぐりいだし わがもろもろの途をことごとく知たまへり」 詩篇133:3 明治元訳聖書
「あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。」 口語訳聖書
「小さな不和」
大きなけんかよりも小さな不和の方が悲しく感じられることもある。その根底には自分が理解されていないという思いがある。人は完全に人を理解できるものではない。この不安は「私をことごとく知っておられる」神に導く。神の「知る」は「関係する」であり、神はかかわりの中で私を知って下さる。そこからくる慰めが、私を「小さな不和」に向かわせてくれる。
(心のデボーション3502)
心のデボーション3503
「われら善をなすに倦まざれ、もし撓まずば、時いたりて刈り取るべし」 ガラテヤ6:9 大正文語訳聖書
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」 口語訳聖書
「うみ疲れず」
「善を行うことに、うみ疲れて(ἐγκακέω)はならない」(ガラテヤ6:9)ἐγκακέωは「やる気を失う、諦める」の意。「倦むことなく励んでいれば」(聖書協会共同訳聖書)、「時が来て、刈り取る」ことになる。
(心のデボーション3503)
心のデボーション3504
「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。」 ヨハネ15:13 大正文語訳聖書
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」 口語訳聖書
「コルベ神父」
アウシュビッツで脱走者の報復として十人の囚人が処刑されることになりました。その一人が「私には妻も子もあるんだ」と叫ぶのを聞いて、その人の身代わりになったのがコルベ神父でした。十人は餓死させられることになり、一滴の水も与えられず、次々に死んでいきました。コルベ神父には肺結核があり、病弱の人でしたが、最後まで生き残り、薬物の注射によって殺されたそうです。身代わりとしていのちを捨てるとは、最後まで自分を生きることだったのです。
(心のデボーション3504)
心のデボーション3505
「其の愛は強くして死のごとく 嫉妬は堅くして陰府にひとし その熖は火のほのほのごとし いともはげしき熖なり」 雅歌8:6 明治元訳聖書
「愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です」 口語訳聖書
「神の愛」
「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい」(雅歌8:6(新改訳聖書)。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」(出エジプト20:5 口語訳聖書) 神の愛は死のように強く、ねたみのように激しい。
(心のデボーション3505)
心のデボーション3506
「人のよろこびは施濟をするにあり 貧者は謊人に愈る」 箴言19:22 明治元訳聖書
「人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる。」 口語訳聖書
「謊人」
「貧しい人は偽りをいう人にまさる」。(箴言19:22)「偽りをいう者כּזָב」は「残虐な者」の意である。(フランシスコ会訳聖書)明治元訳聖書は「謊人(いつわりびと)」と訳す。「謊」音読コウは「うそ、でたらめ、うわごと」の意である。LXXはψεύτης。噓つきのほどこす「哀れみ」は「残忍」であり、心貧しき者はむしろ慈しみ深い。
(心のデボーション3506)
心のデボーション3507
「なんぢ婚筵に招かるるとき、上席に著くな。恐らくは汝よりも貴き人の招かれんに、」 ルカ14:8 大正文語訳聖書
「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。」 口語訳聖書
「譲る心」
座るべきでないところに座ってしまうのは居心地が悪いものである。それを他人から指摘された時の気分の悪さは格別だ。だからといって、いつでも下座に座りさえすればいいともいえない。それも又、座るべきところを間違えるのと同じことである。「上座に座らない」とは、譲る心を持つことではないか。いつでも人に譲ることさえ出来れば、どこに座るかはそれほど問題ではない。譲る心が自分の座るべきところを正しく教えてくれる。
(心のデボーション3507)
心のデボーション3508
「愛は大水も消ことあたはず 洪水も溺らすことあたはず 人その家の一切の物をことごとく與へて愛に換んとするとも尚いやしめらるべし」 雅歌8:7 明治元訳聖書
「愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。」 口語訳聖書
「大水をもってしても」
「愛は大水も消すことができない(σβέννυμι)」。(雅歌8:7 口語訳聖書)σβέννυμιは「消す、消滅させる、もみ消す」の意。この語はマタイ12:20「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消す(σβέννυμι)こともない。」にも使われる。私が「いためられた葦、煙る燈心」であっても、私への神の愛は決してもみ消されることはない。
(心のデボーション3508)
心のデボーション3509
「汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし」 マタイ5:14 大正文語訳聖書
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」 口語訳聖書
「犀の角」
鶴見俊輔氏は、アーナンダ・クーマラスワミーの『ブッダ伝』からブッダの教えについて書いている。「『汝自身を灯火(ともしび)とせよ。be a right to yourself』と。その当時は蝋燭(ろうそく)だよね。蝋燭の光みたいなものを、自分の中でともす。その光によって生きよ、と。そして、「犀のように一人で歩め walk alone like a rhinoceros」。犀といっても、二本の角を持つアフリカ犀と違ってインド犀の角は一本で、その中はぶよぶよとした肉で、お互いの闘争の武器ではありません。だから、喧嘩の道具としては役に立たないし、あまり闘わない。だが、体はでかいから、ほかからつっかかってこない。孤独のままずっと一人でのこのこ密林を歩いている。2500年前には、いまと違ってインドの森の中にたくさんいて孤独の歩みを続けていたらしい。それを釈迦牟尼は見ることがあって、ああいうふうに生きるのがいいというイメージを持ったんだ」(鶴見俊輔『かくれ仏教』より)
ブッダの「灯火」は、人間自身の光で、「犀の角」のように密林をただ一人歩み行く。
(心のデボーション3509)
心のデボーション3510
「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 明治元訳聖書
「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書
「親切な言葉」
「心に憂い」があるとき、「親切な言葉」は心にしみる。その様なときに心に届く「親切な言葉」は、慰めるというよりも、なにげなく語られる一言である場合が少なくない。一言も発せずに、ただそばにいるだけの「親切な言葉」もある。
(心のデボーション3510)
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