心のデボーション0081
「われ汝のほまれの榮光ある稜威(みいづ)となんぢの奇しきみわざとを深くおもはん」 詩篇145:5 明治元訳聖書
「わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、あなたのくすしきみわざとを深く思います。」 口語訳聖書
「わたしは思い巡らします、栄光に輝く威光と不思議な業とを」 フランシスコ会訳聖書
「あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業の数々をわたしは歌います」 新共同訳聖書
הֲ֭דַר כְּב֣וֹד הוֹדֶ֑ךָ וְדִבְרֵ֖י נִפְלְאוֹתֶ֣יךָ אָשִֽׂיחָה׃
τὴν μεγαλοπρέπειαν τῆς δόξης τῆς ἁγιωσύνης σου λαλήσουσιν καὶ τὰ θαυμάσιά σου διηγήσονται
「榮光ある稜威(みいづ)」
「わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、あなたのくすしきみわざとを深く思います。」(詩篇145:5口語訳聖書)「הוֹד(LXXμεγαλορπέπρεα偉大さ、崇高さ)」は「主権、輝き」の意である。明治元訳聖書はこの語を「稜威(みいづ)」と訳した。
「稜威(りょうい)」は「威稜(いつ)」で「神聖であること」から「天子の威光」を意味することばとなった。
軍人勅諭に「我国の稜威(みいず)振(ふ)はざることあらば、汝等能(よ)く朕と其憂(そのうれい)を共にせよ。」とある。「稜威」は「雷光にみる威力」「いきおい、いのちの根源的な蘇る力」から来たとする研究もある。日本人の精神世界における重要な言葉の一つである。
明治のキリスト者は、日本民族の「いのちの蘇る力」が「振(ふ)はざる」ことの憂いから、神の「稜威」へと信仰の目を向けたのではなかったか。
「神の榮光ある稜威(みいづ)と奇しきみわざ」に思いを巡らす。
詩篇104:1-4
口語訳聖書
わがたましいよ、主をほめよ。わが神、主よ、あなたはいとも大いにして誉と威厳とを着、光を衣のようにまとい、天を幕のように張り、水の上におのが高殿のうつばりをおき、雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りあるき、風をおのれの使者とし、火と炎をおのれのしもべとされる。
詩篇105:1-4
口語訳聖書
主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
心のデボーション0082
「爾曹(なんじら)衆(すべて)の人(もの)と和睦(やはらぐ)ことをなし」 へブル12:14 大正文語訳聖書
「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい」 口語訳聖書
εἰρήνην διώκετε μετὰ πάντων, καὶ τὸν ἁγιασμόν, οὖ χωρὶς οὐδεὶς ὄψεται τὸν κύριον,
「和睦(やはらぐ)ことをなし」
「Εἰρήνην διώκετε 和睦(やはらぐ)ことをなし」は、「εἰρήνη平和」を「διώκω追いかける」である。それにはまず、自分の「εἰρήνη平和」を「διώκω追いかけ」なければならない。自分のすべてと和解せよ。自分との和解は、一人の人と「相和す」ことによる。それが始まれば「すべての人」と相和すことができるだろう。
ギリシャ語「διώκω」は「迫害する」の意味にも用いられる。人との和睦(やはらぐ)には、迫害者の熱意をもって執拗に「平和」を追求しなければならない。
箴言16:7
בִּרְצֹ֣ות יְ֭הוָה דַּרְכֵי־אִ֑ישׁ גַּם־אֹ֝ויְבָ֗יו יַשְׁלִ֥ם אִתֹּֽו׃
καρδίαι δικαίων μελετῶσιν πίστεις στόμα δὲ ἀσεβῶν ἀποκρίνεται κακά δεκταὶ παρὰ κυρίῳ ὁδοὶ ἀνθρώπων δικαίων διὰ δὲ αὐτῶν καὶ οἱ ἐχθροὶ φίλοι γίνονται
口語訳聖書
人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。
心のデボーション0083
「老たる者の中には智慧あり 壽長者の中には穎悟(さとり)あり」 ヨブ12:12 明治元訳聖書
「老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある」 口語訳聖書
「老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか」 新改訳聖書
בִּֽישִׁישִׁ֥ים חָכְמָ֑ה וְאֹ֖רֶךְ יָמִ֣ים תְּבוּנָֽה׃
ἐν πολλῷ χρόνῳ σοφία ἐν δὲ πολλῷ βίῳ ἐπιστήμηLXXヨブ12:12
「子よ、老いたるなんじの父を助け、その命の限りこれを憂えしむな。その悟り衰(おとろ)うともこれを忍べ、おのが力強くとも彼を軽んずな」ベン=シラの知恵3:12-13 日本聖公会訳
「老たる者の中には智慧あり」
老いた身を、若者に「いたわり、忍んで」欲しいとは思わない。ただ、若者に勘違いしないように伝えておきたい。老いたる者が「その悟り衰(おとろ)えたり」と見えるのは、「衰え」ではなく、強さというよりも弱さにも学ぶ者となった、そのことである。「軽んずべきこと」ではない。
「悟りתֶּּבוּנָה」(ヨブ2:12)を明治元訳聖書は「穎悟(えいご)」として「さとり」と読ませる。「穎悟(えいご)」の「穎(えい)」は「優れて」の意であり、「非常な賢さ」を意味する。「悟りתֶּּבוּנָה」のLXXπολλῷ βίῳ ἐπιστήμηは「生きた知性」の意である。
「知恵と力は神とともにあり、思慮と英知は神のものだ」 箴言12:13 新改訳聖書
心のデボーション0084
「主の僕は爭ふべからず、凡ての人に優しく能く教へ忍ぶことをなし」 Ⅱテモテ2:24 大正文語訳聖書
「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、」 口語訳聖書
「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません」 新共同訳聖書(2:24-25)
δοῦλον δὲ κυρίου οὐ δεῖ μάχεσθαι, ἀλλὰ ἤπιον εἶναι πρὸς πάντας, διδακτικόν, ἀνεξίκακον,
「何にてもなんじに来たるものを受け、なんじの身分の低くせらるるときにも忍べ」 ベン=シラの知恵2:2 日本聖公会訳
「屈辱の炉」
孔子は「人知らずして慍(いきど)おらず」(学而第一 1 01-01)と語る。智慧を学び得ることは楽しい、同道の友が尋ね来るのはさらに嬉しい。しかし、たとえ自分の学び得たことが世に認められなくても、腹を立てない。それが君主の名に値する者ではないかという。
君主になどなれるはずはなく、またなりたいとも思わぬが、自分が低くせられることに、それを「自分に来るもの」として、腹をたてずに受け忍ぶ者にはなりたい。
「金は火で精錬され、/人は屈辱のかまどで陶冶され、/神に受け入れられる。ὅτι ἐν πυρὶ δοκιμάζεται χρυσὸς καὶ ἄνθρωποι δεκτοὶ ἐν καμίνῳ ταπεινώσεως. 〔病気のときも貧しいときも、主に依り頼め。〕」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:5
金は「屈辱の炉」にて陶冶されて神に受け入れられる貴きものとなる。
心のデボーション0085
「アブラムよ懼(おそ)るるなかれ我は汝の干櫓(たて)なり汝の賚(たまもの)は甚(はなは)だ大(おおい)なるべし」 創世記15:1 明治元訳聖書
「これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、/「アブラムよ恐れてはならない、/わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、/はなはだ大きいであろう」。」 口語訳聖書
אַחַ֣ר׀ הַדְּבָרִ֣ים הָאֵ֗לֶּה הָיָ֤ה דְבַר־יְהוָה֙ אֶל־אַבְרָ֔ם בַּֽמַּחֲזֶ֖ה לֵאמֹ֑ר אַל־תִּירָ֣א אַבְרָ֗ם אָנֹכִי֙ מָגֵ֣ן לָ֔ךְ שְׂכָרְךָ֖ הַרְבֵּ֥ה מְאֹֽד׃
μετὰ δὲ τὰ ῥήματα ταῦτα ἐγενήθη ῥῆμα κυρίου πρὸς Αβραμ ἐν ὁράματι λέγων μὴ φοβοῦ Αβραμ ἐγὼ ὑπερασπίζω σου ὁ μισθός σου πολὺς ἔσται σφόδρα LXX創世記15:1
「我は汝の干櫓(たて)なり」
約束の地で老いていくアブラハムに神は臨まれ、「「我は汝の干櫓(たて)なり」(創世記15:1)と言われた。明治元訳聖書は「アブラムよ懼(おそ)るるなかれ我は汝の干櫓(たて)なり」と訳す。儒教経典に「忠信以て甲冑と爲し、禮義以て干櫓と爲し、仁を戴きて行ひ、義を抱きて處をり、暴政有りと雖も、其の所を更へざる有」とある。「干櫓(たて)かんろ」は「大盾、小盾」の意である。ヘブル語 מָגֵן(LXX ὑπερασπίζω「盾」)は「盾、丸盾」である。「盾」は飛来る矢玉をふせぎ、振り下ろされる刃を受けとめる。
申命記33:29
אַשְׁרֶ֨יךָ יִשְׂרָאֵ֜ל מִ֣י כָמ֗וֹךָ עַ֚ם נוֹשַׁ֣ע בַּֽיהוָ֔ה מָגֵ֣ן עֶזְרֶ֔ךָ וַאֲשֶׁר־חֶ֖רֶב גַּאֲוָתֶ֑ךָ וְיִכָּֽחֲשׁ֤וּ אֹיְבֶ֙יךָ֙ לָ֔ךְ וְאַתָּ֖ה עַל־בָּמוֹתֵ֥ימוֹ תִדְרֹֽךְ׃ ס
μακάριος σύ Ισραηλ τίς ὅμοιός σοι λαὸς σῳζόμενος ὑπὸ κυρίου ὑπερασπιεῖ ὁ βοηθός σου καὶ ἡ μάχαιρα καύχημά σου καὶ ψεύσονταί σε οἱ ἐχθροί σου καὶ σὺ ἐπὶ τὸν τράχηλον αὐτῶν ἐπιβήσῃ
口語訳聖書
イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
詩篇3:3
רַבִּים֮ אֹמְרִ֪ים לְנַ֫פְשִׁ֥י אֵ֤ין יְֽשׁוּעָ֓תָה לּ֬וֹ בֵֽאלֹהִ֬ים סֶֽלָה׃
πολλοὶ λέγουσιν τῇ ψυχῇ μου οὐκ ἔστιν σωτηρία αὐτῷ ἐν τῷ θεῷ αὐτοῦ διάψαλμα
口語訳聖書
しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
今日の平安は、神が「盾」として私の知らない攻撃の刃を防がれるが故の「賚(たまわりもの)」である。
心のデボーション0086
「一切のもの我に可からざるなし、然れど一切のもの益あるにあらず。一切のもの我に可からざるなし、されど我は何物にも支配せられず」 Ⅰコリント6:12 大正文語訳聖書
「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」 口語訳聖書
「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益となるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」 新共同訳聖書
πάντα μοι ἔξεστιν, ἀλλ᾽ οὐ πάντα συμφέρει. πάντα μοι ἔξεστιν, ἀλλ᾽ οὐκ ἐγὼ ἐξουσιασθήσομαι ὑπό τινος.
「制約のもとの自由」
アダムに与えられたのは「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という制約のもとに約束された自由であった。(創世記2:17)パウロも「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益となるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」(Ⅰコリント6:12)という。
自由(ἐλεύθερος)は何でもできることではなく、してはならないことを自ら受容する自由を意味し、そこに人間の尊厳も存在した。この制約のもとに、人は人間としての自分に踏みとどまるのである。(Ⅰコリント6:12)
Ⅰコリント10:23
πάντα ἔξεστιν, ἀλλ᾽ οὐ πάντα συμφέρει. πάντα ἔξεστιν, ἀλλ᾽ οὐ πάντα οἰκοδομεῖ.
口語訳聖書
すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。
心のデボーション0087
「神ノアおよび彼とともに方舟にある諸の生物と諸の家畜を眷念(おも)ひたまひ」 創世記8:1 明治元訳聖書
「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。」 口語訳聖書
וַיִּזְכֹּ֤ר אֱלֹהִים֙ אֶת־נֹ֔חַ וְאֵ֤ת כָּל־הַֽחַיָּה֙ וְאֶת־כָּל־הַבְּהֵמָ֔ה אֲשֶׁ֥ר אִתֹּ֖ו בַּתֵּבָ֑ה וַיַּעֲבֵ֨ר אֱלֹהִ֥ים ר֨וּחַ֙ עַל־הָאָ֔רֶץ וַיָּשֹׁ֖כּוּ הַמָּֽיִם׃
καὶ ἐμνήσθη ὁ θεὸς τοῦ Νωε καὶ πάντων τῶν θηρίων καὶ πάντων τῶν κτηνῶν καὶ πάντων τῶν πετεινῶν καὶ πάντων τῶν ἑρπετῶν ὅσα ἦν μετ᾽ αὐτοῦ ἐν τῇ κιβωτῷ καὶ ἐπήγαγεν ὁ θεὸς πνεῦμα ἐπὶ τὴν γῆν καὶ ἐκόπασεν τὸ ὕδωρ LXX創世記8:1
口語訳聖書
「眷念 けんねん」
「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。」(創世記8:1口語訳聖書) 明治元訳聖書は「神ノアおよび彼とともに方舟にある諸の生物と諸の家畜を眷念(おも)ひたまひ」と訳す。「眷念 けんねん」(ヘブル語rkz「覚える、思い起こす、記録する、記念する」)は「強く惹かれる、愛着を覚える、思い慕う、懐かしむ」の意味。LXXμνάομαιは「覚えている、求婚する」の意である。神はノアと箱舟の中にいたすべての生き物を、恋する者に求婚するがごとくに「みこころに記(と)め」られたのである。(詩篇115:12)
神は私を「眷念 けんねん」し、思い慕われる。
詩篇106:4
זָכְרֵ֣נִי יְ֭הוָה בִּרְצ֣וֹן עַמֶּ֑ךָ פָּ֝קְדֵ֗נִי בִּישׁוּעָתֶֽךָ׃
μνήσθητι ἡμῶν κύριε ἐν τῇ εὐδοκίᾳ τοῦ λαοῦ σου ἐπίσκεψαι ἡμᾶς ἐν τῷ σωτηρίῳ σου
口語訳聖書
主よ、あなたがその民を恵まれるとき、わたしを覚えてください。あなたが彼らを救われるとき、わたしを助けてください。
心のデボーション0088
「偖(さて)イエス聖靈(せいれい)に導(みちび)かれ惡魔(あくま)に試(こころみ)られん爲(ため)に野(の)に往(ゆけ)り」 マタイ4:1 大正文語訳聖書
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」 口語訳聖書
「そのときイエス悪魔より試みらるべく、荒野にまで靈に連れ往かれ給へり」 永井直治訳聖書
Τότε ὁ ᾽Ιησοῦς ἀνήχθη εἰς τὴν ἔρημον ὑπὸ τοῦ πνεύματος πειρασθῆναι ὑπὸ τοῦ διαβόλου.
「人間の意味」
荒野でイエスはサタンに「神の子」であることの意味を試みられる。それはサタンが神に対して、「人間」の意味を問うものでもある。そのようにしてサタンは神の意味をも問うのである。人間の存在が問われるところでは、神の存在も問われる。しかし、意味は神にあり、神から来る限り、誰が意味を否定することができようか?
使徒17:26-28
ἐποίησέν τε ἐξ ἑνὸς πᾶν ἔθνος ἀνθρώπων κατοικεῖν ἐπὶ παντὸς προσώπου τῆς γῆς, ὁρίσας προστεταγμένους καιροὺς καὶ τὰς ὁροθεσίας τῆς κατοικίας αὐτῶν, ζητεῖν τὸν θεὸν εἰ ἄρα γε ψηλαφήσειαν αὐτὸν καὶ εὕροιεν, καί γε οὐ μακρὰν ἀπὸ ἑνὸς ἑκάστου ἡμῶν ὑπάρχοντα. ἐν αὐτῶ γὰρ ζῶμεν καὶ κινούμεθα καὶ ἐσμέν, ὡς καί τινες τῶν καθ᾽ ὑμᾶς ποιητῶν εἰρήκασιν, τοῦ γὰρ καὶ γένος ἐσμέν.
口語訳聖書
また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。
心のデボーション0089
「汗のいづるごとくに身をよそほふべからず」 エゼキエル44:18 明治元訳聖書
「汗の出るような衣を身につけてはならない」 口語訳聖書
「発汗を促すようなものは着用しない」 フランシスコ会訳聖書
וּ֠בְצֵאתָם אֶל־הֶחָצֵ֨ר הַחִיצוֹנָ֜ה אֶל־הֶחָצֵ֣ר הַחִיצוֹנָה֮ אֶל־הָעָם֒ יִפְשְׁט֣וּ אֶת־בִּגְדֵיהֶ֗ם אֲשֶׁר־הֵ֙מָּה֙ מְשָׁרְתִ֣ם בָּ֔ם וְהִנִּ֥יחוּ אוֹתָ֖ם בְּלִֽשְׁכֹ֣ת הַקֹּ֑דֶשׁ וְלָֽבְשׁוּ֙ בְּגָדִ֣ים אֲחֵרִ֔ים וְלֹֽא־יְקַדְּשׁ֥וּ אֶת־הָעָ֖ם בְּבִגְדֵיהֶֽם׃
καὶ κιδάρεις λινᾶς ἕξουσιν ἐπὶ ταῖς κεφαλαῖς αὐτῶν καὶ περισκελῆ λινᾶ ἕξουσιν ἐπὶ τὰς ὀσφύας αὐτῶν καὶ οὐ περιζώσονται βίᾳ LXXエゼキエル44:18
「汗のいづる衣」
祭司は聖所で職をなすとき、「毛服を身につく」ことを禁じられ、粗末な「麻の衣」を身に着けることが定められた。(エゼキエル44:17) 「汗のいづるごとくに身をよそほふ」のを避けるためであった。「汗のいづる(LXXβίᾶ「力、暴力」)衣」は毛皮でなくても作れる。冷や汗は暑くなくても出る。私も時々、この種の汗をかく。着るべきでない衣をまとったせいだ。
エゼキエル44:18
明治元訳聖書
汗のいづるごとくに身をよそほふべからず
箴言11:28
בֹּוטֵ֣חַ בְּ֭עָשְׁרֹו ה֣וּא יִפֹּ֑ל וְ֝כֶעָלֶ֗ה צַדִּיקִ֥ים יִפְרָֽחוּ׃
ὁ πεποιθὼς ἐπὶ πλούτῳ οὗτος πεσεῖται ὁ δὲ ἀντιλαμβανόμενος δικαίων οὗτος ἀνατελεῖ
口語訳聖書
自分の富を頼む者は衰える、正しい者は木の青葉のように栄える。
心のデボーション0090
「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ」 ロマ10:15 大正文語訳聖書
「善い知らせをもたらす者の足は何と美しいことか」 フランシスコ会訳聖書
πῶς δὲ κηρύξωσιν ἐὰν μὴ ἀποσταλῶσιν; καθὼς γέγραπται, ὡς ὡραῖοι οἱ πόδες τῶν εὐαγγελιζομένων [τὰ] ἀγαθά.
「善き事を告ぐる者の足」
ブルボン王朝の時代に、スペインのマドリードでは、道は石の尖った方を上にし、平たい部分を下にして埋められたという。(堀田善衛『ゴヤ スペイン・光と影』)逆にすると鋪石が動いて石畳が壊れるからであった。道を行く庶民は尖った石を踏み、血を流して歩かなければならなかった。
「善き事を告ぐる者の足οἱ πόδες τῶν εὐαγγελιζομένων [τὰ] ἀγαθά」は血まみれの汚れた足であった。「善い知らせ」は「血まみれの、埃によごれた足」で運ばれる。「美しく、尊い足」である。(ロマ10:15)
イザヤ61:1
ר֛וּחַ אֲדֹנָ֥י יְהוִ֖ה עָלָ֑י יַ֡עַן מָשַׁח֩ יְהוָ֨ה אֹתִ֜י לְבַשֵּׂ֣ר עֲנָוִ֗ים שְׁלָחַ֙נִי֙ לַחֲבֹ֣שׁ לְנִשְׁבְּרֵי־לֵ֔ב לִקְרֹ֤א לִשְׁבוּיִם֙ דְּר֔וֹר וְלַאֲסוּרִ֖ים פְּקַח־קֽוֹחַ׃
πνεῦμα κυρίου ἐπ᾽ ἐμέ οὗ εἵνεκεν ἔχρισέν με εὐαγγελίσασθαι πτωχοῖς ἀπέσταλκέν με ἰάσασθαι τοὺς συντετριμμένους τῇ καρδίᾳ κηρύξαι αἰχμαλώτοις ἄφεσιν καὶ τυφλοῖς ἀνάβλεψιν
口語訳聖書
主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ縛られている者に解放を告げ、
イザヤ52:7
מַה־נָּאו֨וּ עַל־הֶהָרִ֜ים רַגְלֵ֣י מְבַשֵּׂ֗ר מַשְׁמִ֧יעַ שָׁל֛וֹם מְבַשֵּׂ֥ר ט֖וֹב מַשְׁמִ֣יעַ יְשׁוּעָ֑ה אֹמֵ֥ר לְצִיּ֖וֹן מָלַ֥ךְ אֱלֹהָֽיִךְ׃
ὡς ὥρα ἐπὶ τῶν ὀρέων ὡς πόδες εὐαγγελιζομένου ἀκοὴν εἰρήνης ὡς εὐαγγελιζόμενος ἀγαθά ὅτι ἀκουστὴν ποιήσω τὴν σωτηρίαν σου λέγων Σιων βασιλεύσει σου ὁ θεός
口語訳聖書
よきおとずれを伝え、平和を告げ、
よきおとずれを伝え、救を告げシオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。
福音は殉教者の血によって現代にもたらされた。
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