心のデボーション3481
「なんぢ勸をきき訓をうけよ 然ばなんぢの終に智慧あらん」 箴言19:20 明治元訳聖書
「勧めを聞き、教訓をうけよ、そうすれば、ついには知恵ある者となる。」 口語訳聖書
「聞き従う」
「勧めを聞きשְׁמַ֣ע עֵ֭צָה」は「עֵ֭צָה(計画、助言)LXXπαιδείᾶ (訓練、懲らしめ、懲戒)」に「שְׁמַ֣ע(聞く、聞き従う)」である。神の計画、助言を聴く者は、直ちに聞き従う者である。(箴言19:20) 知恵はそこから来る。
(心のデボーション3481)
心のデボーション3482
「このゆゑに神ヱホバかくいひ給ふ 視よわれシオンに一つの石をすゑてその基となせり これは試をへたる石たふとき隅石かたくすゑたる石なり これに依賴むものはあわつることなし」 イザヤ28:16 明治元訳聖書
「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」 口語訳聖書
「信頼」
気づいたことをあるがままにしておけるようになるには、少々の訓練が必要である。何かに気づくと、介入したくなり、その結果、状況を必要以上に歪めてしまうこともある。信頼とは、深い関心を寄せながら何もしないでいられることも少なくない。あわてふためいて動くことをしない。何もしないが、自分のすべてを向けて、その状況にかかわる。そうしていると、ゆったりとした流れが感じられる。その流れは信じてよいと思う。
(心のデボーション3482)
心のデボーション3483
「眞理(まこと)を買へ これを售(う)るなかれ 智慧と誡命と知識とまた然あれ」 箴言23:23 明治元訳聖書
「真理を買え、これを売ってはならない、知恵と教訓と悟りをも買え。」
「真理」
「真理אֱמֶ֣ת」は「真実、確かさ、信頼できること」をあらわす。明治元訳聖書は「眞理を買へ これを售るなかれ」と訳す。「售る(売る)」は「售賈(シュウコ 売り買い、販売)」である。「真理」を得るために金銭を惜しむな。しかし、真理(ἀλήθεια)は「販売」すべき(できる)ものでもない。(箴言23:23)
(心のデボーション3483)
心のデボーション3484
「目には目を、齒には齒を」と云へることあるを汝ら聞けり。」 マタイ5:38 大正文語訳聖書
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」 口語訳聖書
「あてつけ」
「あてつけ」は露骨に表現できない時に使う間接的な怒りである。それを指摘すると「そんなつもりでいったのではない」という逃げ道が用意されている。あてつけにあてつけをもって返すのは「目には目で、歯には歯で᾽Οφθαλμὸν ἀντὶ ὀφθαλμοῦ καὶ ὀδόντα ἀντὶ ὀδόντος.」と同じことで、最悪ある。対立や反感があって自然であり、それを否定するのでなく、相手の嫌な部分は自分にもあると認める。それが「左の頬を向ける」ことであろう。(マタイ5:38)
(心のデボーション3484)
心のデボーション3485
「汝らの忍ぶは懲戒の爲なり、神は汝らを子のごとく待ひたまふ、誰か父の懲しめぬ子あらんや。」 へブル12:7 大正文語訳聖書
「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。」 口語訳聖書
「束の間の忍耐」
「耐え忍ぶὑπομένω」は「踏みとどまる、耐える」の意。ヒルティは「すべての困難はほんの束の間耐え忍べば、次の瞬間にはもう変化が起こり、少なくとも新しい力が生まれてくる」とし「だから、心配事の多い時節には、とかくの判断をさし控えておくことができれば、たいへん賢明である」と助言する。(ヒルティ『幸福論』より)
(へブル12:7)
(心のデボーション3485)
心のデボーション3486
「汝仇をかへすべからず汝の民の子孫に對ひて怨を懐くべからず己のごとく汝の鄰を愛すべし我はヱホバなり」 レビ19:18 明治元訳聖書は
「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。」 口語訳聖書
「わたしは主である」
「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」は「わたしは主である。」で結ばれる。神御自身が、「仇をかえさず」、「恨みを抱かず」、「自分自身のように人を愛される」。そのことを通して、人は「仇をかえさず」、「恨みを抱かず」、「自分自身のように人を愛する」のである。
(心のデボーション3486)
心のデボーション3487
「この故に我らは憐憫を受けんが爲、また機に合ふ助となる惠を得んがために、憚らずして惠の御座に來るべし」 へブル4:16 大正文語訳聖書
「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 口語訳聖書
「ミルク桶のカエル」
ユダヤの小咄に「ミルク桶に落ちたカエル」というのがある。ミルク桶に落ちたカエルには3つの対処法が考えられる。①すべては神のお考え次第と何もしない。②桶からは出られずミルクも深い、おぼれるしかない。③まずいことになったといいながら足のあるかぎりミルクの中をゆっくり泳ぐ。助かったのは三番目のカエルで、泳いでいると足が固いものにふれる。ミルクがかき回されてバターができ、それを足場にこのカエルは外に出られたという。カエルにはそれが「おりにかなった助け」だった。
(心のデボーション3487)
心のデボーション3488
「われ二心のものをにくみ汝のおきてを愛しむ」詩篇119:113 明治元訳聖書は
「わたしは二心の者を憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。
「二心」
「主を畏れる思いに逆らうな。二心を抱いて主に近づくな。」 旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:28 フランシスコ会訳聖書 「二心を抱くἐν καρδίᾳ δισσῇ」。δισσός =διττόςは「二重の、分かれた、一致しない、曖昧な、疑わしい」の意。主への畏れと不信が混在する心である。二心を抱いて主に近づく者は何も得ることがないばかりか、自らを損なう。(詩篇119:113)
(心のデボーション3488)
心のデボーション3489
「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ」 マタイ5:13 大正文語訳聖書
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」 新共同訳聖書
「塩で味つけられた言葉」
パウロは「いつも、塩(ἅλας)で味つけられた快い言葉を語れ」という(コロサイ4:6)。そのためには「自分自身の内に塩をもつ」ことが肝要である。その「塩味」は「火」にて味つけられるものである(マルコ9:49,50)。
(心のデボーション3489)
心のデボーション3490
「汝の兄弟の牛または羊の迷ひをるを見てこれを見すて置べからず必ずこれを汝の兄弟に牽ゆきて歸すべし 」 申命記22:1 明治元訳聖書
「あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない。」 口語訳聖書
「兄弟の羊」
兄弟の牛や羊が群れから離れて迷っているのを見つけたら、そのままにせず、兄弟のところに連れ戻さなければならない。もし、兄弟の一人が道に迷うのを知ったら、直ちに道に連れ戻らなければならない。
(心のデボーション3490)
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