心のデボーション250

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† 心のデボーション 02491

「言ふ我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處に歸らん ヱホバ與へヱホバ取たまふなり ヱホバの御名は讚べきかな」 ヨブ記1:21 明治元訳聖書

「そして言った、/『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』。」 口語訳聖書

 「心の傷」

傷のない人は幸せだろうか。痛みを知らない心は空っぽで、「痛みを忘れる」ことの意味もわかるまい。ヨブは自分の傷を見つめる。そして「主は与え、主は取られる」と神への賛歌をうたうのである。傷があるから、人は生きることができる。そこに湧く心のエネルギーは、真に美しいものを見分ける。傷を嫌なものと思わないことである。私たちは傷があるから、私だとわかる存在である。

(†心のデボーション02491)

† 心のデボーション 02492

「聽くところの耳と視るところの眼とはともにヱホバの造り給へるものなり」 箴言20:12 明治元訳聖書

「聞く耳と、見る目とは、ともに主が造られたものである。」 口語訳聖書

 「聞く耳と、見る目」

道元は「一方を証するときは一方はくらし」という。「見る」という一方があれば、「見られる」ことはなくてよい。「聞く」という一方があれば、「聞かれる」ことはなくてよい。「見る」という一方に、すでに「見られる」はあり、「聞く」という一方に、すでに「聞かれる」はあるからである。

(†心のデボーション02492)

† 心のデボーション 02493

「なんじら倦み疲れて心を喪ふこと莫らんために、罪人らの斯く己に逆ひしことを忍び給へる者をおもへ。」 ヘブル12:3 大正文語訳聖書

「あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」 口語訳聖書

 「はずかしめ」

はずかしめを受けるとき、十字架を忍ばれたイエスを思いみるべきである。「思いみる ἀναλογίζομαι」は「熟考する、計算する」の意味である。「自分の前に置かれた喜び」(ヘブル12:2)を正しく計算し、熟慮せよというのである。

(†心のデボーション02493)

† 心のデボーション 02494

「艱難者の日はことごとく惡く 心の懽べる者は恒に酒宴にあり」 箴言15:15 明治元訳聖書

「悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会をもつ。」 口語訳聖書

 「面白味」

人生が面白くないという人もいる。そういう人に共通しているのは、人生が面白くないのではなく、面白味のない人が人生をやっていることである。しかし、自分を面白くしようというのも不自然である。意識された面白さというのは少しも面白くないからである。それより、人に近づいて、その人の面白味がわかるようになるというのはどうか。「心が朗らかな人」というのは、人を楽しむことのできる人のことである。

(†心のデボーション02494)

† 心のデボーション 02495

「惡を謀る者は自己をあやまるにあらずや 善を謀る者には憐憫と眞實とあり」 箴言14:22 明治元訳聖書

「悪を耕す者は必ず迷う。/善を耕す人には慈しみとまことがある。」 聖書協会共同訳聖書

 「善を耕す」

箴言は「悪を耕す者は必ず迷う」と告げる。ことに迷うのは悪を耕しているのである。いくら耕してもろくでもないものしか出てこない。「善を耕せ」。そうすれば、思わぬよきものが出てくる。

(†心のデボーション02495)

† 心のデボーション 02496

「ゼブルンの地、ナフタリの地、 海の邊、ヨルダンの彼方、 異邦人のガリラヤ」 マタイ4:15 大正文語訳聖書

「ゼブルンの地、ナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンのかなた、異邦人のガリラヤ」 フランシスコ会訳聖書

 「異邦人」

「異邦人」を山浦玄嗣訳は「夷狄 えびす」となっている。古代中国では文化の及ばない地を「夷」とし、東夷、西戎、北狄、南蛮と呼んだ。排斥された人々である。日本では「都から遠く離れた地」をさし、京都からみれば東国武士は「あずまえびす」であった。荒々しき人々であった。

(†心のデボーション02496)

† 心のデボーション 02497

「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。」 ロマ10:15 大正文語訳聖書

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」 新共同訳聖書)

 「善き事を告ぐる者の足」

「いんげんまめ」は江戸時代に、明の僧、隠元禅師がもたらしたことから、その名がある。(隠元禅師がもたらしたのはインゲン豆ではなく藤豆という説もあり、関西では藤豆をインゲン豆というそうである。) 南瓜が日本にもたらされたのは天文10年(1541)ごろ、漂着したポルトガル船から藩主大友宗麟に謁見した宣教師パルタザール・ガコが南瓜を献上されたという説もある。大友宗麟は後にキリシタン大名となった。教えを伝える人は、種を懐に渡来し、土地の人々に新しい作物をもたらしたのである。

(†心のデボーション02497)

† 心のデボーション 02498

「そのとき悪魔彼を棄(す)つ」 マタイ4:11 永井直治訳

「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」 新共同訳聖書

 「悪魔彼を棄(す)つ」

「離れ去る ἀφίημι  アふィエーミ」は「放棄する、置き去る」の意味。永井直治訳「そのとき悪魔彼を棄(す)つ」。悪魔はイエスをそこに「捨て置いた」、しかし「棄てた」のではない。イエスをそのままに放置したまでである。イエスを棄てない悪魔は、それゆえに人間を放棄することもない。

(†心のデボーション02398)

† 心のデボーション 02499

「心の安穩なるは身のいのちなり」 箴言14:30  明治元訳聖書

「穏やかな心は肉体を生かす。/妬みは骨を腐らせる。」 聖書協会共同訳聖書

 「足元の鳥」

「足下から鳥が立つ。」という。身近なところから、突然、思わぬことが起こる。こんなところに鳥がいたのかという驚きもある。そのくらいの驚きなら、ときにはあった方がよいかもしれない。飛び立つのは鳥一羽のことなのだ。

(†心のデボーション02499)

† 心のデボーション 02500

「人の魂靈を護りて墓に至らしめず 人の生命を護りて劍にほろびざらしめたまふ」 ヨブ33:18 明治元訳聖書

「その魂を守って、墓に至らせず、/その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。」 口語訳聖書

 「婆子焼庵」

禅の話に「婆子焼庵」というのがある。ある老婆が一人の旅の修行僧を20年間も世話をし、ある日、食事の世話をする少女に修行僧を誘惑するように仕向ける。すると、修行僧は「枯れた木が岩に立つように、私の心はまったく熱くならない」と言った。老婆は聞いて怒り、修行僧を追い出し、庵を焼いてしまった。もし、修行僧が誘惑を受け入れても同じことだったろう。

(†心のデボーション02500)

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