心のデボーション249

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† 心のデボーション 02481

「かくて幼兒を抱き、手をその上におきて祝し給へり」 マルコ10:16 大正文語訳聖書

「そして彼らを抱き、手をその上において祝福された」 口語訳聖書

 「カラマ」

 1920年10月9日、インドで狼に育てられた女の子カラマが発見され、保護された。カラマは孤児院に引き取られ、シング牧師によって育てられた。カラマは人間に親しみを示さず、昼間は壁に向かって、うずくまり、夜になると四つ足で走り、腐肉を食べ、狼のほえ声を立てるのだった。シング夫人は毎日カラマの全身を愛情を込めてマッサージした。それによって、カラマは人を受け入れ、愛するまでになったのある。

(†心のデボーション2481)

† 心のデボーション 02482

「我かれらを陰府の手より贖はん我かれらを死より贖はん死よなんぢの疫は何處にあるか陰府よなんぢの災は何處にあるか悔改はかくれて我が目にみえず」 ホセア13:14 明治元訳聖書

「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか。あわれみは、わたしの目から隠されている。」 口語訳聖書

 「災難に遭う時節」

良寛は「災難に遭う時節には災難に遭うがよく、死ぬる時節には死ぬがよく、これはこれ災難をのがるる妙法」と言ったという。(佐藤和彦『禅問答入門』より) 極意ではあるが、どうしても災難や死が近づけば亀のように首を縮めたくなる。

(†心のデボーション2482)

† 心のデボーション 02483

「我らの行ひし義の業にはよらで、唯その憐憫により、更生の洗と、我らの救主イエス・キリストをもて豐に注ぎたまふ聖靈による維新とにて、我らを救ひ給へり」 テトス3:5,6 大正文語訳聖書

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」 テトス3:5 口語訳聖書

 「心の一新」

「新たに ἀνακαίνωσις」は「心の一新により」を意味する語である。聖霊によって信じる者の心は一新される。パウロはローマの信徒に「心の一新 ἀνακαίνωσις によって自分を変えなさい」とすすめる。(ロマ12:2)

(†心のデボーション2483)

† 心のデボーション 02484

「なんぢら知らぬか、馳場を走る者はみな走れども、褒美を得る者の、ただ一人なるを。汝らも得んために斯く走れ。」 Ⅰコリント9:24 大正文語訳聖書

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。」 口語訳聖書

 「いたずらっ子賞」

フランスのある幼稚園では、毎年、卒園式で成績優秀な子の表彰がおこなわれる。表彰を受けるのは成績のよかった子だけではない。ユーモア賞、ニコニコ賞、親切賞、がまん賞、清潔賞、などいろいろあり、いたずらっ子賞のときはひときわ盛り上がるそうである。人生の卒園式では、いいかげん賞とか、やりっぱなし賞などが新設されるよう希望する。

(†心のデボーション2484)

† 心のデボーション 02485

「義の道を知りて、その傳へられたる聖なる誡命を去り往かんよりは寧ろ義の道を知らぬを勝れりとす。」 Ⅱペテロ2:21 大正文語訳聖書

「義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。」

 「義の道」

「聖なる戒めにそむく」は「聖なる戒めなら戻っていく」の意味で、「義の道を知りながら、くびすを返してその道から引き返す」ことである。それなら「むしろ義の道を知らなかった方がよい。」とペテロは告げるのである。

(†心のデボーション2485)

† 心のデボーション 02486

「ゼブルンの地、ナフタリの地、 海の邊、ヨルダンの彼方、 異邦人のガリラヤ」 マタイ4:15 大正文語訳聖書

「ゼブルンの地、ナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンのかなた、異邦人のガリラヤ」 フランシスコ会訳聖書

 「イースター島」

太平洋に浮かぶモアイ像で知られる「イースター島 Easter Island」には、ふるくから板に刻まれた絵文字「ロンゴロンゴ」が存在した。周囲の島々は文字をもたなかったがイースター島(スペイン語:Isla de Pascua)だけに発達した独自の文字であった。1864年1月2日、イエズス・マリアの聖心会 (フランスのカトリック修道会) の平修道士、ユージーン・ユーロー (Eugène Eyraud) は、イースター島に上陸、その後9カ月間イースター島に滞在し、数百枚の絵文字の文字板を目撃し、報告している。

それから4年後の1868年、ヒッポリト・ルーセル神父 (Hippolyte Roussel)が、文字板を収集し、それらを翻訳できる先住民を見つけ出そうとしたところ、わずかの文字板しか発見できず、テキストの読み方についても住民の間で意見の食い違いがあった。

この貴重な「ロンゴロンゴ」は現在21枚しか残されておらず、解読ができなくなってしまった。この4年の間にイースター島から「ロンゴロンゴ」が消滅した理由について、「ロンゴロンゴは悪魔の文字である」として宣教師によって焼却されたという説があるが、定かではない。俗説としても、そのような想像がなされる背景に、「異邦人」「異教徒」を異文化として、これを軽んじ、排斥する信仰の姿勢があることを認めなければならない。

イエスは「異邦人のカリラヤ」を本拠地とし、弟子を選び、宣教を開始されたが、それは「異邦人のガリラヤ」を破壊することでも、革命的に変革することでもなかった。

(†心のデボーション02486)

† 心のデボーション 02487

「灌木の中に嘶なき 荊棘の下に偃す」 ヨブ30:7 明治元訳聖書

「灌木の中にいななき、いらくさの下に押し合う。」 口語訳聖書

 「いらくさの下」

イライラしたことのない人などいないであろう。「イライラ」の語源は「いら」は草木の「棘」のことである。「いらいら」と重ねることで、不快感を表す。「いらいら」の原因は一つではない。いくつかの「棘」が重なってつのるのである。ヨブをあざけるのは、みずから「いらくさの下に押し合う」者たちで、「いらいらした若者」であった。

(†心のデボーション2487)

† 心のデボーション 02488

「なんぢの大庭にすまふ一日は千日にもまされり われ惡の幕屋にをらんよりは 寧ろわが神のいへの門守とならんことを欲ふなり」 詩篇84:10 明治元訳聖書

「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」 口語訳聖書

 「神の大庭の一日」

内容のないことが一定のリズムで繰り返されるような生活では、時は遅く感じられる。逆に、夢中になって仕事をした日はあっという間に過ぎていく。ところが、後になって振り返ってみると、怠惰に過ごした日々は実際よりも短く、充実した日々は長く感じられるのである。詩人は神の大庭での一日をあっという間に過ごし、後になって思い起こすと、それは千日にも感じたのであろう。

(†心のデボーション2488)

† 心のデボーション 02489

「ほどこし散して反りて増ものあり 與ふべきを吝みてかへりて貧しきにいたる者あり」 箴言11:24 明治元訳聖書

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」 口語訳聖書

 「味無い物」

「味無い物の煮え太り」という。不味いものほど、食べきれないほどの量になってしまう。食べないのでいつになっても減らない。適当に処分すればよいのだが、身についた貧乏性がそうはさせない。

(†心のデボーション2489)

† 心のデボーション 02490

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」 新共同訳聖書

 「自分の奥まった部屋」

「祈祷は神とその子との水入らずの対話である」(藤井武『信仰生活』より) 神との水入らずの対話を交わすことのできるところならどこでも「隠れた所、自分の奥まった部屋」である。

(†心のデボーション2490)

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