† 心のデボーション 02471
「義者さけびたればヱホバ之をききてそのすべての患難よりたすけいだしたまへり」 詩篇34:17 明治元訳聖書
「正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。」 口語訳聖書
「叫ぶ」
何もかも放棄したくなったら「もういやです」と叫んでいいのではないだろうか。神は私たちに悲鳴を押し殺すようにと求められてはいないと思う。神を信じて「もういやだ」と叫ぶ。自分の愚かさや無力を思い知らされるからこそ、神に叫ばずにいられないのである。人は自分の無力を知った分だけ、神の恵みに導かれる。さらに、自分の愚かさ、弱さを知る人は、何もかも放棄したりはしない。
(†心のデボーション02471)
† 心のデボーション 02472
「わが眼はなやみの故をもておとろへぬ われ日ごとに汝をよべり ヱホバよなんぢに向ひてわが兩手をのべたり」 詩篇88:9 明治元訳聖書
「わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。」 口語訳聖書
「日々是好日」
「日々是好日」はめぐりくる日のすべてを良しとすることである。めぐりくる日には受け入れがたい日々もある。だが、それらの辛い日々があってこその「日々是好日」である。
(†心のデボーション02472)
† 心のデボーション 02473
「ヱホバはあはれみと恩惠にみちて怒りたまふことおそく仁慈ゆたかにましませり」 詩篇103:8 明治元訳聖書
「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。」 口語訳聖書
「人格に語り掛ける神」
明確な人格をもたない日本の文化に対して、聖書は神を人格をもつ神としてとらえる。人はは自己の人格に語り掛けられる神によって神を知るのである。
(†心のデボーション02473)
† 心のデボーション 02474
「なんぢは人の子輩にまさりて美しく文雅そのくちびるにそそがる このゆゑに神はとこしへに汝をさいはひしたまへり」 詩篇45:2 明治元訳聖書
「あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。」 口語訳聖書
「主のくちびる」
人には優しいが自分には厳しいという人は、いま一つ信じられない。人は自分に優しくなれて、はじめて、他人に優しくなれると思うからである。詩人は王を称えて「あなたのくちびるからは優しさ流れ出る」とうたう。「優しさ」は、まず、王自身に向かって流れ、そして、人々に届くのだろう。自分に優しくなれる人は「王のくちびる」を持っていて、すべての人を勇気づける。
(†心のデボーション02474)
† 心のデボーション 02475
「智慧をすつることなかれ彼なんぢを守らん 彼を愛せよ彼なんぢを保たん」 箴言4:6 明治元訳聖書
「知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。」 口語訳聖書
「忌枝」
盆栽には、不必要な枝を「忌枝」、必要な枝を「役枝」といい、初心者は必要な「役枝」よりも、不必要な「忌枝」を見分ける目が求められる。「忌枝」を放置すると形が崩れて美しさを損ねて盆栽をだめにしてしまう。盆栽には必要なことだが、組織でも自分でも、その力が働くと、美しくはあっても、どこか造り物の匂いがする。
(†心のデボーション02475)
† 心のデボーション 02476
「ゼブルンの地、ナフタリの地、 海の邊、ヨルダンの彼方、 異邦人のガリラヤ」 マタイ4:15 大正文語訳聖書
「ゼブルンの地、ナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンのかなた、異邦人のガリラヤ」 フランシスコ会訳聖書
「ガリラヤ地方」
ガリラヤ地方はカナン征服後ユダヤ人の地になったが、多くのカナン人の先住民が暮らしていた。その後この地は、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリアなどに征服され、その都度、多民族の移住が繰り返され、ユダヤ人との混血がおこなわれ、ユダヤ人から「異民族のガリラヤ」と呼ばれた。
ユダヤ人は「神に選ばれた者」であり(イザヤ43:20~21)、異邦人との混血は何よりも蔑むべきことであった。イエスの時代には、異邦人とは食事も共にしない者も多くいたのである。
「異邦人 ἔθνος エとノス」は「異邦人」であるとともに、「異教徒」であることを意味する。
民族と個人を切り離すことはできない。それはいかなる個人も民族の宗教と無縁ではいられないということである。人はだれでも「内なる宗教性」を持つ。それは内にあって光を与えられるのを待っている。
(†心のデボーション02476)
† 心のデボーション 02477
「なんぢらヱホバの書をつまびらかにたづねて讀べし これらのもの一つも缺ることなく又ひとつもその偶をかくものあらじ そはヱホバの口このことを命じ その靈これらを集めたまふべければなり」 イザヤ34:16 明治元訳聖書
「主の書を調べて、読め。/これらのうち、一つも欠けるものはない。/それぞれが相手を見いだせないことはない。/主の口が命じ/その霊が集めたからである。」 聖書協会共同訳聖書
「韋編三絶 いへんさんぜつ」
「韋編三絶 いへんさんぜつ」の「韋編」は竹簡を革ひもで綴じたもので、「三絶」はその皮ひもが三度切れるの意味である。孔子が易経を繰り返し読み、その皮ひもが三度切れたという故事に由来する。かく読むに値する書を見出した人は幸いである。
(†心のデボーション02477)
† 心のデボーション 02478
「われ仆るるばかりになりぬ わが悲哀はたえずわが前にあり」 詩篇38:17 明治元訳聖書
「わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。」 口語訳聖書
「あ痛」
日本語で「あ痛」、英語は「アウチ」、中国語なら「アトン」、フランス語の「アイー」、ヒスワリ語では「アター」、痛みの声はどこか共通している。痛みはないほうがいいにきまっている。しかし、人は痛みに守られてもいる。痛むときは、がまんしないで「痛い」と声を出すほうがよい。「あ痛」「アウチ」「アトン」「アイー」「アター」、お好きなのでどうぞ。
(†心のデボーション02478)
† 心のデボーション 02479
「汝朝に種を播け 夕にも手を歇るなかれ 其はその實る者は此なるか彼なるか又は二者ともに美なるや汝これを知ざればなり」 伝道11:6 明治元訳聖書
「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」 口語訳聖書
「朝油断の夕屈み」
「朝油断の夕屈み(かがみ)」という。朝なまけていると、夕には困り果てるの意である。伝道の書は「朝の内に種をまけ」という。「御言葉の種」、又しかり。
(†心のデボーション02479)
† 心のデボーション 02480
「兄弟よ、われ汝らに勸む、おほよそ汝らの學びし教に背きて分離を生じ、顛躓をおこす者に心して之に遠ざかれ。」 ロマ16:17 大正文語訳聖書
「きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」 聖書協会共同訳聖書
「警戒」
昔、山際に家を持つ人は水が濁ったら逃げろと言われて育った。山の水が濁るのは出水や山崩れの前触れだからである。崩れないと思うところから崩壊がはじまる。警戒すべきは山の水だけではない。
(†心のデボーション02480)
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