心のデボーション246

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† 心のデボーション 02451

「ダビデ死ぬる日近よりければ其子ソロモンに命じていふ 」 Ⅰ列王記2:1 明治元訳聖書

「ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、」 口語訳聖書

 「強く、男らしくあれ」

「今日、死ぬよ」といって、そのことば通りに亡くなった人もいる。「ダビデの死ぬ日が近づいたとき」は「ダビデの日々が死に近づいたとき」という表現である。死が私たちに近づくのではなく、私たちの日々が死に近づくのである。その日には「私は世の全ての人の行く道を行こうとしている」といい、残される人を「強く、男らしくありなさい」と励ますのが旧約聖書の人々の常であった。

(†心のデボーション02451)

† 心のデボーション 02452

「サタン、ヱホバに應へて言けるは皮をもて皮に換るなれば人はその一切の所有物をもて己の生命に換ふべし」 ヨブ2:4 明治元訳聖書

「サタンは主に答えた。「皮には皮を、と言います。人は自分の命には、すべてを差し出します。」 聖書協会共同訳聖書

 「いのちの為には」

サタンは神に「人は自分の命には、(神への信仰など)すべてを差し出します。」と言い、ヨブを試みた。自分のいのちのためには神を捨て、異なる信仰を選ぶのはサタンの誘惑である。

(†心のデボーション02452)

† 心のデボーション 02453

「拙き者よなんぢら聰明に明かなれ 愚なる者よ汝ら明かなる心を得よ」 箴言8:5 明治元訳聖書

「思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。」 聖書協会共同訳聖書

 「思慮なき者よ」

旧約聖書外典ベン=シラの知恵に「熟慮なしには、何事も行うな。/そうすれば、お前が行ったことを/後で悔やまずに済む。」と言われている。(ベン=シラの知恵32:19 新共同訳聖書)

「熟慮なしには、何事も行はない」というのが、すでに「知恵」であり、彼は「思慮なき者」ではない。

(†心のデボーション02453)

† 心のデボーション 02454

「王こたへて言はん『まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり』」 マタイ25:40 大正文語訳聖書

「すると王は答えて言う、『あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである』」 フランシスコ会訳聖書

 「ノードストロームによる福音」

ある高級デパートに、一目でホームレスとわかる婦人が入ってきた。彼女がイブニングドレスを試着したいというと、店員は彼女が気に入るまで何着もドレスをもってきて、どれが似合うか相談にのった。試着室から出てきたとき、婦人は別人のように背筋を伸ばし、目の輝きまで取り戻していたである。それを目撃した牧師は次の日曜日に「ノードストロームによる福音」という説教をし、たいそうな評判だったという。

(†心のデボーション02454)

† 心のデボーション 02455

「おのれの田地を耕す者は糧にあき 放蕩なる者に從ふものは貧乏に飽く」 箴言28:19 明治元訳聖書

「自分の土地を耕す人はパンに満ち足り/空しいことを追求する者は貧しさに満ち足りる。」 聖書協会共同訳聖書

 「貧しさ」

自分の土地を耕す者は、貧乏でも決して貧しくない。彼はそこからのパンに満ち足りる。「空しいことを追求する者」はたとえ富を得ても貧しい。彼はそこからでは満ち足りるパンを得られないからである。

(†心のデボーション02455)

† 心のデボーション 02456

「後ナザレを去りて、ゼブルンとナフタリとの境なる、海邊のカペナウムに到りて住み給ふ」 マタイ4:13 大正文語訳聖書

「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」 新同訳聖書

 「慰めの村」

「カファルナウム Capernaum 」 は現在のガリラヤ湖の北北西の湖岸のテル・フームにあった。「カファルナウム Capernaum 」はヘブル語の「Nfar  Nahum ナフーム(慰め)の村」を意味する。

イエスは故郷ナザレから「カファルナウム Capernaum 慰めの村 」に行かれる。イエスの「慰めの村」は地のどこにあるのだろうか。

(†心のデボーション02456)

† 心のデボーション 02457

「大なる會のなかにてわが汝をほめたたふるは汝よりいづるなり」 詩篇22:25 明治元訳聖書

「大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。」 口語訳聖書

 「歪」

「歪」ということばは「飯櫃(いいびつ)」からきているという。「飯櫃(いいびつ)」は炊き上がった飯をいれるまげもののことで、楕円形をしている。完全な円でなくゆがんでいることから「歪 いびつ」と言った。いびつにはいびつの美しさがあると思うが。

(†心のデボーション02457)

† 心のデボーション 02458

「凡ての聖徒とともにキリストの愛の廣さ・長さ・高さ・深さの如何ばかりなるかを悟り、」 エペソ3:18 大正文語訳聖書

「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、」 口語訳聖書

 「欠陥」

人格に関しては醜いものを排除すれば美しくなるというものではないようだ。醜さを切り捨てては美しく輝くことはできない。欠陥や醜さがその人の美しさに結びつくには、それが成長のために神が下さった特別な賜物であると気づく必要がある。自分に欠陥があり、それを受容することによって、人は神の愛を知ることができる。そして、それが欠陥であることすら忘れてしまうのである。

(†心のデボーション02458)

† 心のデボーション 02459

「神はむぎの最嘉をもてかれらをやしなひ 磐よりいでたる蜜をもて汝をあかしむべし」 詩篇81:16 明治元訳聖書

「わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」 口語訳聖書

 「朝腹の丸薬」

「朝腹の丸薬」というのは、すきっ腹に丸薬を飲んでも腹の足しにはならないという意味である。役に立たたなことのたとえである。魂のすきっ腹に、適当な丸薬を「これでも飲みな」というのと似ている。

(†心のデボーション02459)

† 心のデボーション 02460

「なんぢら異邦人なりしとき、誘はるるままに物を言はぬ偶像のもとに導き往かれしは、汝らの知る所なり」 Ⅰコリント12:2 大正文語訳聖書

「あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。」 口語訳聖書

 「偶像」

パウロは偶像を「物の言えない偶像 τὰ εἴδωλα τὰ ἄφωνα」と呼ぶ。「物の言えない ἄφωνος」は「ことばを持たない、ものが言えない」の意味である。言葉を持たないものに聞くのは空しい。

(†心のデボーション02460)

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