† 心のデボーション 02431
「エホバよ、なんじの大路をわれにしめし、なんじの徑(みち)をわれにおしへたまへ」 詩篇25:4 明治元訳聖書
「主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。」 口語訳聖書
「道草」
子どものころ「道草を食うんじゃないよ」といわれると、道草とは野イチゴのようなもので、いつかは食べてみたいと本気で思っていた。後になって、それは馬が道端の草を食って、手間取ることだと知った。道草は、わき道にそれ、道を踏み外すことではないわけで、それほど悪いこととも思えない。「主の小道」は、道草を楽しめるような道で、あちこちにその仕掛けがあるのではないかと思う。
(†心のデボーション02431)
† 心のデボーション 02432
「義者の首には福祉きたり」 箴言10:6 明治元訳聖書
「正しい者のこうべには祝福があり、」 口語訳聖書
「正しい者のこうべ」
「幸せ」は後回しにしてはいけないという。今、つかめない「幸せ」は永遠にこない。「幸せ」であるか、どうかではなく、何を「幸せ」とするか、それが問題なのだ。
(†心のデボーション02432)
† 心のデボーション 02433
「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり」 詩篇46:1 明治元訳聖書
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」 口語訳聖書
「今際の助け」
内村鑑三は「なやめるときの最ちかき助なり」を、「悩める時の今際の助けである」と訳す。「今はの際」は「臨終の時」の意味である。悩みがいよいよ深まるところに神の助けがある。
(†心のデボーション02433)
† 心のデボーション 02434
「かの酒に耽る者は邪曲なる者なり 驕傲者にして安んぜず彼はその情慾を陰府のごとくに濶くす また彼は死のごとし 又足ことを知ず 萬國を集へて己に歸せしめ萬民を聚めて己に就しむ 」 ハバクク2:5 明治元訳聖書
「また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」 口語訳聖書
「バカは人間ではない」
「バカは人間ではない」という言葉には驚かないわけにはいかない。しかし、本人は本当にそう思っていて、「バカとは口をきく必要もない」というのである。自分を絶対と信じる全能意識の裏には、その分だけの劣等感が隠されている。その心には「バカは人間ではない」という言葉に怯える自分がいるのかもしれない。人から学ぶことができないほどに、自分を高くしたり、低くしたりすることから自分を守る必要がある。
(†心のデボーション02434)
† 心のデボーション 02435
「イエス言ひ給ふ『われは生命のパンなり、我にきたる者は飢ゑず、我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。』」 ヨハネ6:35 大正文語訳聖書
「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」 口語訳聖書
「魂の渇き」
「イエスを信じる者は決してかわくことがない」とある。「決してかわくことがない οὐ μὴ διψήσει πώποτε.」の「決して πώποτε」は「今だかつて、まだ一度も」の意味である。イエスを信じる者は未だかつて渇くことがない(一度として渇かない)。それはイエスを信じれば「魂の渇き」がなくなるという意味ではない。いかなる渇きも主によって満たされるので、一度として裏切られることがないという意味である。
(†心のデボーション02435)
† 心のデボーション 02436
「後ナザレを去りて、ゼブルンとナフタリとの境なる、海邊のカペナウムに到りて住み給ふ」 マタイ4:13 大正文語訳聖書
「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」 新共同訳聖書
「故郷」
「離れ καταλείπω カタれイポー」は「去る、後に残す、見捨てる」の意味がある。
「ナザレ」は下ガリラヤ丘陵地帯にある、イエスが両親とともに住まわれた町で、イエスは「ナザレ人イエス」と呼ばれる。(使徒10:38) この地でイエスの宣教は開始されたが、ナザレの人々はその教えに驚きながらも、「この人はヨセフの子ではないか」とイエスに従うことはなかった。(マタイ11:23 ルカ4:22)
人はいつか「故郷」を出る。「故郷」に拒まれていることを知るからだ。わが「故郷」よ、何故に人を拒むか?
(†心のデボーション02436)
† 心のデボーション 02437
「誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし」 箴言31:10 明治文語訳聖書
「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い」 新改訳聖書
「稲妻」
「稲妻」の語源は「稲の夫」であるという。昔は夫婦や恋人を互いに「夫(つま)」と呼び交わした。そこから雷を「稲」に豊かなみのりをもたらしてくれる「稲の夫」と呼び、それが「稲妻」になったそうである。ただ、この「稲妻」は直撃されると怖い。
(†心のデボーション02437)
† 心のデボーション 02438
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」 口語訳聖書
「心に注がれる神の愛」
ここでいう「心 καρδία カルディア」は、文字どおり「心臓」を意味することばである。そこから血が送り出され、全身をめぐり再びそこに戻っていく。 人は生涯、心のすべてを知ることはできない。自分は本当には自分というものがわからないのかもしれない。しかし、怖がることはない。心の深部に「神の愛」は注がれ、全身をくまなく駆け巡っているからである。本当に恐れるのは、この「神の愛」なしに心の深部を覗くことである。
(†心のデボーション02438)
† 心のデボーション 02439
「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書
「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」 新改訳聖書
「浅瀬に仇浪」
考えの浅い人ほど騒ぎたてることを「浅瀬に仇浪」という。「仇浪」は「徒波」とも書き、むやみに立ち騒ぐ波のことである。大波になる恐れはないが、いつまでも続くとうるさい。
(†心のデボーション02439)
† 心のデボーション 02440
「かくてイザヤの預言は、彼らの上に成就す。曰く、「なんぢら聞きて聞けども悟らず、 見て見れども認めず」 マタ13:14 大正文語訳聖書
「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない』」 新共同訳聖書
「悟らない心」
「聞くには聞く ἀκοῇ ἀκούσετε」を塚本虎二訳聖書は「聞いても聞いても」と訳す。「聞きに聞く、聞き続ける」(岩隈直「新約ギリシャ語辞典」)の意味を持つ。「聞くに聞くが悟らない心」がある。
(†心のデボーション02440)
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