心のデボーション243

デボーション1
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† 心のデボーション 02421

「(京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1

「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」 口語訳聖書

 「水路づけ」

宝くじを当てた人は、きっと次も買うに違いない。人はある方法で成功すると、その方法を繰り返したくなるものだ。心理学では、それを「水路づけ」と呼ぶ。運河を行く船のように、一度水路がつけられると、そこだけをたどろうとするところから来ている。詩人は、目を上げ「私の助けはどこから来るのだろう」と自問する。助けは、いつも意外な方向から来るようだ。それもまた、神の方法なのである。

(†心のデボーション02421)

† 心のデボーション 02422

「噫なんぢら渇ける者ことごとく水にきたれ 金なき者もきたるべし 汝等きたりてかひ求めてくらへ きたれ金なく價なくして葡萄酒と乳とをかへ」 イザヤ55:1 明治元訳聖書

「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」 口語訳聖書

 「避けられないなら」

これはもう避けられないと知ったら、自分からその困難に入っていくのも一つの在り方である。突入してみるとそれほどのものでもないと分かったりするものだ。困難は想像しているときが一番厳しい。準備しているときは慎重でも、始める時は楽天的なのがよさそうだ。

(†心のデボーション02422)

† 心のデボーション 02423

「エホバよ、なんじの大路をわれにしめし、なんじの徑(みち)をわれにおしへたまへ」 詩篇25:4 明治元訳聖書

「主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。」 口語訳聖書

 「小径」

「あなたの大路」はギリシャが語訳(LXX)τὰς ὁδούς σου κύριε γνώρισόν μοι καὶ τὰς τρίβους σου δίδαξόν μεでは「ὁδούς」(道、道路、街道)が使われる。この語は「旅、旅路、行路、旅行、旅程」の意味もある。「あなたの道」は「τὰς τρίβους σου」で「τρίβους」は「小径」で、人が踏んでつくられた細道である。公道も、私が踏んでつくるような「小径」も、共に、神から来る。神は私の小径にすら、先立ち給うのである。

(†心のデボーション02423)

† 心のデボーション 02424

「我なんぢの證詞をまもりたり 我より謗とあなどりとを取去たまへ」 詩篇119:22 明治元訳聖書

「わたしはあなたのあかしを守りました。彼らのそしりと侮りとを/わたしから取り去ってください。」 口語訳聖書

 「網」

ボードレールの詩に「網」というのがある。ある少年が自殺をした。その母親が首をくくるのに使った網を欲しがる。息子の形見にしたいのかと思って渡すと、他にも網が欲しいという人が現われる。調べてみると、自殺に使われた網は縁起物として高く売れることがわかる。母親も近隣の人も、少年の網で一儲けしようとしたのである。この逞しく現実的な母親に育てられた少年が自殺したことが、私には不思議に思える。

(†心のデボーション02424)

† 心のデボーション 02425

「されどヱホバよ我なんぢに向ひてさけべり わがいのりは朝にみまへに達らん」 詩篇88:13 明治元訳聖書

「しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。」 口語訳聖書

 「神をお迎えする」

詩人は神に祈り、朝には「わが祈をあなたのみ前にささげます」という。「御前にささげる קדם」は「~の前に進む、先んじる、迎える」の意味である。詩人は神に先んじて夜明け前から神に呼ばわり、祈りをもって神を待ち受け、お迎えしたのである。

(†心のデボーション02425)

† 心のデボーション 02426

「イエス、ヨハネの囚はれし事をききて、ガリラヤに退き」 マタイ4:12 大正文語訳聖書

「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」 新改訳聖書

 「最も福音を求める地」

イエスはガリラヤに退かれ、ガリラヤで宣教を開始された。ガリラヤはガリラヤ湖西岸の南北80キロ、東西40キロの「狭い地域」である。ヨセフスによればガリラヤに「204の村があり、一万五千人の人口があった」という。(バークレー『マタイ福音書』) 狭いが人口の密集した地域であった。ガリラヤ地方は肥沃な地として栄えたが、人口が増えるにしたがって、貴族や富裕層と貧しい住民との間に格差がひろがり、社会は不安定になり、反乱の発生しやすい状況にあった。(ヘロデ・アンティパス治世の初期、紀元後6年には、ヒゼキアの息子のユダが、父の後を継いで農民の反乱(ユダの反乱)を起こしている。)イエスは、その時代の「最も福音を求める地」から宣教を開始された。

(†心のデボーション02426)

† 心のデボーション 02427

「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり」 マタイ6:28 大正文語訳聖書

「着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように育つかをよく見なさい。ほねおることも、紡ぐこともしない」 フランシスコ会訳聖書

 「一張羅」

たった一枚の服を「一張羅」という。「一張羅」の語源は「一挺蝋燭(いっちょうろうそく)」という説もある。「一本の蝋燭」のことで、昔は貴重な一本の蝋燭を客のために用意したところから、たった一枚の貴重な「羅(薄絹)」を「一張羅」というようになったという。牧師になりたての頃、たった一枚の服とネクタイで何年も通したのは「一張羅」とは言わないのかもしれない。

(†心のデボーション02427)

† 心のデボーション 02428

「さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん」 マタイ7:24 大正文語訳聖書

「以上のわたしの言葉を聞いて実行する者は皆、岩の上に家を建てた賢い人にたとえられる」 フランシスコ会訳聖書

 「先のばし」

やれることはその場でしてしまうのが、後になって苦しまない秘訣である。たとえば、虫歯は、痛みがきてすぐに治療すればよいものを、歯磨きの回数を増やしたりして、先にのばしたりする。どうして、人はこうも遠回りをするのだろうか。無駄と知りつつ抵抗してみたいのだろうか。それともただの臆病なのか。「聞いて」ただちにそれを「行う」かしこさは、簡単ではない。

(†心のデボーション02428)

† 心のデボーション 02429

「また他の譬を示して言ひたまふ『天國は一粒の芥種のごとし、人これを取りてその畑に播くときは』」 マタイ13:31 大正文語訳聖書

「イエスはほかの喩えを示して仰せになった、「天の国は一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って畑に蒔いた」 フランシスコ会訳聖書

 「商いは草の種」

「商いは草の種」という諺は、商売には草の種ほどに種類が多いという意味である。野菜の種は発芽しても、すべてが育つわけではない。適当にすぐって、丈夫な芽を育てなければならない。商売のコツは、信仰とも似たところがあるようだ。

(†心のデボーション02429)

† 心のデボーション 02430

「それ神は亂の神にあらず、平和の神なり。」 Ⅰコリント14:33 大正文語訳聖書

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。」 口語訳聖書

 「整えられた混乱」

「神は無秩序の神ではない」。「無秩序 ἀκαταστασία」は「不安定、混乱」をあらわす語で、「神は不安定、混乱の神ではない」の意味である。天地創造のはじめにあった「混沌」(創世記1:2 地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。聖書協会共同訳聖書)は「不安定な無秩序」ではなく、「神の霊がその面を動く」秩序のもとに「整えられた混乱」であった。

(†心のデボーション02430)

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