心のデボーション241

デボーション1
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† 心のデボーション 02401

「汝いかに思ふか、此の三人のうち、孰か強盜にあひし者の隣となりしぞ」 ルカ10:36

「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」 口語訳聖書

 「傍観者」

橋の上で人が倒れていたら通行人はどうするかという実験がある。朝の通勤時間だったが、30分間に、倒れた人に声をかける人は1人もいなかったという。「目撃者が多いほど、人は助けなくなる」という調査からいえば、実験が朝の通勤時間で、しかも、人通りの多い橋の上だったことが、人を冷たい傍観者したのかもしれない。「良きサマリヤ人」は、人通りの多い街道であれ、人目のない山道であれ、傷ついた人を見れば助けてだろう。

(†心のデボーション02401)

† 心のデボーション 02402

「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 明治元訳聖書

「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書

 「小さな親切」

アメリカでは有料の通行料金を後続の見知らぬ車の分も払う人がいる。金額にして30円くらいなのだが、お洒落な「小さな親切」である。後に続く人が「おっ」と思うのを楽しむくらいの気持ちを味わうことができる。

(†心のデボーション02402)

† 心のデボーション 02403

「汝らが遭ふ戰鬪は、曩に我の上に見しところ、今また我に就きて聞くところに同じ。」 ピリピ1:30 大正文語訳聖書

「あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。」 口語訳聖書

 「アスリート」

アスリートの鍛えられた技は美しい。しかし、その裏には途方もない苦闘が隠されている。パウロは福音のための苦闘を「ἀγών 戦い」と呼ぶ。「ἀγών」はオリンピアなどの集りの場からきており、「競技」の意味である。アスリート達が厳しい鍛錬を凌がなければ栄誉はないように、福音はアスリートのような苦闘によって栄誉にいたる。

(†心のデボーション02403)

† 心のデボーション 02404

「朋友はいづれの時にも愛す 兄弟は危難の時のために生る」 箴言17:17 明治元訳聖書

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」 新改訳聖書

 「兄弟」

箴言は「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と語る。互いを「兄弟」と呼びかわす関係も、苦しみを分け合うことによって生まれる。そういう「兄弟」を見つけることができるのなら、苦しみに会うことには深い意味があるといえよう。苦しみを受けた人ほど、人を深く愛することができる。苦しみを通して生まれた絆は、たやすくは崩れない。愛が二人を結びつけているからです。

(†心のデボーション02404)

† 心のデボーション 02405

「斯く我が走るは目標なきが如きにあらず、我が拳鬪するは空を撃つが如きにあらず。」 Ⅰコリント9:26 大正文語訳聖書

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」 口語訳聖書

 「ゴール」

パウロは「わたしは目標のはっきりしないような走り方をしない」という。「目標のはっきりしない」はἀδήλως

で「定まった目標がない」の意味である。ゴールがどこか分からないような走り方はしないものだ。しかし、ときどき、「走ってさえいれば安心する自分がいる。

(†心のデボーション02405)

† 心のデボーション 02406

「視よ、御使たち來り事へぬ」 マタイ4:11 大正文語訳聖書

「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」 新共同訳聖書

 「天使」

「天使 ἄγγελος  アンゲろス」は「仕える διακονέω  ディアコネオー 世話し、奉仕し、助ける」ため神より派遣された「使者 messenger」である。

キリスト教絵画では「天使」は神話的存在として描かれる。しかし、天使は「使者 messenger」であり、「おとずれ ἀγγελία  message」を意味する。天使を視覚的に理解することはできない。

(†心のデボーション02406)

† 心のデボーション 02407

「兄弟よ、主の來り給ふまで耐へ忍べ。視よ、農夫は地の貴き實を、前と後との雨を得るまで耐へ忍びて待つなり。」 ヤコブ5:7 大正文語訳聖書

「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」 口語訳聖書

 「信天翁」

アホウドリは別名を「馬鹿鳥」という不名誉な呼ばれ方をする。かつて無人島で繁殖していたため人を怖がらず、簡単に捕まえられたことから来たようだ。漢名では「信天翁」ともあり、天を信じる翁の意味である。自分では魚を採れないので、他の鳥が捕らえた魚を落とすのを待っていると思われてつけられた名であろう。運を天にまかせて待つというのは単なる阿呆ではできない。

(†心のデボーション02407)

† 心のデボーション 02408

「ヨシユアすでに年邁みて老たりしがヱホバかれに言たまひけらく汝は年邁みて老たるが尚取るべき地の殘れる者甚だおほし」 ヨシュア13:1 明治元訳聖書

「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」 口語訳聖書

 「占領すべき地」

年を重ねてはじめて見えてくる「地平」がある。それは、遥かに眺めるだけではなく「占領すべき」ものとしての地平である。年をとることの喜びは、年を重ねるにしたがって「遥かなる地平」が深い意味をもって日常の中に出現してくることである。自分の人生に残されている「地平」を知る人は、死の瞬間まで出会いを求め、そして、「私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」という神の声を聞く。

(†心のデボーション02408)

† 心のデボーション 02409

「正しき言は如何に力あるものぞ 然ながら汝らの規諫る所は何の規諫とならんや」 ヨブ記6:25 明治元訳聖書

「正しい言葉はいかに力のあるものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか。」 口語訳聖書

 「明るけりゃ、月夜」

ことわざに「I think that it is a moonlight night when bright. 明るけりゃ、月夜だと思う」という。明るければ月夜のはずだと決めつける、物事を深く考えないことへの戒めである。もって自戒とすべきで、人の思いを決めつけるに用いるべきでもない。

(†心のデボーション02409)

† 心のデボーション 02410

「憂ふる者の如くなれども常に喜び、貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何も有たぬ者の如くなれども凡ての物を有てり。」 Ⅱコリント6:10 大正文語訳聖書

「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」 口語訳聖書

 「常に喜ぶ」

「常に喜ぶ ἀεὶ δὲ χαίροντες」は「常に ἀεὶ」は「繰り返し」の意味である。繰り返し、何度でも、絶えず喜べ。そうする者は「多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(口語訳聖書)

(†心のデボーション02410)

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