† 心のデボーション 02391
「坩堝によりて銀をためし鑢によりて金をためし その讃らるる所によりて人をためす」 箴言27:21 明治元訳聖書
「るつぼによって銀をためし、炉によって金をためす、人はその称賛によってためされる。」 口語訳聖書
「他人の称賛」
銀はるつぼで練られ、金は炉でふきわけられる。そして人は「他人の称賛」によって試される。その人が金かカスかは「他人の称賛」に対する反応でわかる。ほめられることが何よりうれしく、賛美の声に酔うようなら、かなり重傷である。箴言17:3に「人の心をためすのは神」とある。称賛を受けるとき、神に試されていると感じられるなら問題はない。
(†心のデボーション02391)
† 心のデボーション 02392
「我は善き牧者にして、我がものを知り、我がものは我を知る、」 ヨハネ10:14 大正文語訳聖書
「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。」 口語訳聖書
「理解」
英語で「理解 understand 」の語源は古英語 understandan(under 下に + standan 立つ)から来ている。Underに対する語はover(上から覆う)である。人は「下に立つ」ことができないと「理解」できない。上から覆うようなやり方が誤解をよぶ。
ヨハネ10:14は、「イエスは私を知り、私はイエスを知る」と告げている。双方に互いを知ることが「知る γινώσκω ギノースコー」である。
(†心のデボーション02392)
† 心のデボーション 02393
「なんぢの衣裳の香氣はレバノンの香氣のごとし」 雅歌4:11 明治元訳聖書
「あなたの衣のかおりはレバノンのかおりのようだ。」 口語訳聖書聖
「香水」
ことわざに「Happiness is a perfume,you cannot pour on others without getting a few drops on yourself. 幸せとは香水のようなもの。他人にふりかければ、おのずと自分にも数滴かかる。」というのがあるそうだ。しかし、香水というものは好みがあり、自分に「幸せの香り」でも、他人には「忌まわしい香り」であることも少なくない。まずは、自分の「香水」が万人を喜ばせるとは限らないと知っておくことだ。幸せという香水はめったに他人に振りかけるものではない。
(†心のデボーション02393)
† 心のデボーション 02394
「サタンよ、退け『主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし』」 マタイ4:10 大正文語訳聖書
「そこで、イエズスは仰せになった。「サタンよ、退け。『あなたの神、主を拝み、ただ主のみに仕えよ』と書き記さている」 フランシスコ会訳聖書
「サタンよ、退け」
私が「サタンよ、退け」と言ったところで、サタンが出て行くものではない。イエスに言っていただくしかない。
一度だけではなく、その都度お願いする。
(†心のデボーション02394)
† 心のデボーション 02395
「勤めはたらく者の圖るところは遂にその身を豊裕ならしめ 凡てさわがしく急ぐ者は貧乏をいたす」 箴言21:5 明治元訳聖書
「勤勉な人の計画は、ついにその人を豊かにする、すべて怠るものは貧しくなる。」 口語訳聖書聖
「言うは易く」
「Id est facile dictu, sed difficile factu. 言うことは簡単。でも実行することは難しい」という諺はどの国にもある。問題は「実行」である。これは「始めるまでは大変、でも始めてしまえば簡単」である。そのこつを掴めば出来もしないことを口にはしなくなる。
(†心のデボーション02395)
† 心のデボーション 02396
「かくて群衆を去らしめてのち、祈らんとて竊(ひそか)に山に登り、夕になりて獨(ひとり)そこにゐ給ふ」 マタイ14:23 大正文語訳聖書
「そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」 口語訳聖書
「寂しさに向かう」
心を病む人から「今はそっとしておいて下さい」といわれるのはつらい。そんな時には、援助しょうとしている自分自身も孤独で、その寂しさから病める人に近づこうとしていないかを考えてみる必要もある。慰めてもらいたいのは、むしろ自分自身であるのかもしれない。寂しいところに退き、一人になる必要がある。自分の寂しさに向かうことができなければ、人を慰めることはできない。
(†心のデボーション02396)
† 心のデボーション 02397
「汝は我が教誨・品行・志望・信仰・寛容・愛・忍耐・迫害、および苦難を知り、」 Ⅱテモテ3:10 大正文語訳聖書
「しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、」 口語訳聖書
「パウロの生き方」
パウロは若いテモテがよく「わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、…数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。」という。(Ⅱテモテ3:10~11) 「歩み ἀγωγη」は「生き方、生活態度」である。テモテがパウロに学んだのは教えだけではなく、パウロの生き方、生活態度であった。
(†心のデボーション02397)
† 心のデボーション 02398
「完人に目をそそぎ直人をみよ 和平なる人には後あれど」 詩篇37:37 明治元訳聖書
「全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。」 口語訳聖書
「公孫樹」
銀杏の樹は「公孫樹」とも書く。「公孫樹」は当て字で、人(公)が植え、孫の代になって、ようやくその実を食べることができるという意味だそうである。孫は「公孫樹」に実を食べるごとに、祖父のことを思い出す樹である。孫のために一本の「公孫樹」を植えてみよう。
(†心のデボーション02398)
† 心のデボーション 02399
「尊貴なかにありて暁らざる人はほろびうする獣のごとし」 詩篇49:20 明治元訳聖書
「人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。」 口語訳聖書
「悟り」
たとえ自分で自分の人生を祝福できて、人がそれを認めたとしても「悟り」がなければ意味がないと詩人は告げる。「悟り」とは「たましい」のことではないだろうか。(詩篇45:10)死の力がこの身をとらえても、たましいは損なわれることがない。むしろ、その光を強くする。「たましい」は神によって「よみの手から買い戻され」「神に受け入れられた」いのちである。このいのちが私を照らしてくれる。
(†心のデボーション02399)
† 心のデボーション 02400
「なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ」 マタイ25:35 大正文語訳聖書
「あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ,渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し」 フランシスコ会訳聖書
「貧しい者」
「貧しい者、飢える者の中にわたしイエスはいる」(犬養道子『未来からの過去』より)。イエスがおられるのは、貧しき者の群れというよりも、「貧しく飢えている私」の中である。いかなるところ、時にもイエスは私と共にいる。
(†心のデボーション02400)
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