† 心のデボーション 02381
「愚なる者はその怒をことごとく露はし 智慧ある者は之を心に蔵む」 箴言29:11 明治元訳聖書
「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」 新改訳聖書
「怒りをぶちまける」
人は自分の描いた脚本に相手が乗ってこなかったり、予想外の反応を示したりすると怒りを感じる。その脚本が相手へのやさしさの物語であれば、その筋書き通りにいかないことへのいら立ちは一層つのる。しかし、自分の怒りを表わすことを恐れて、やさしくふるまうのが本当のやさしさだろうか。たとえ怒りをあらわしても、そして、怒りに対して予想外の反応があったとしても、そのことで自分が傷つかないなら、ことは内におさまるかもしれない。怒りをあらわした自分に傷つくようなら、「愚か者」の怒り方をしてしまったのである。
(†心のデボーション02381)
† 心のデボーション 02382
「黄泉にて苦惱の中より目を擧げて、遙にアブラハムと其の懷裏にをるラザロとを見る。」 ルカ16:23 大正文語訳聖書
「そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」 口語訳聖書
「金持ちとラザロ」
犬飼道子さんがルカ16章の「金持ちとラザロ」について興味深い解説をされている。「なぜ金持ちは地獄に行ったのか。「見なかったからである」見る眼を持っていなかった。見て、思いを巡らす思考力・想像力を与えられているのにそれらを使わず見なかった。…金持ちはラザロを見て知っていたが、取り合わなかったのである」(犬飼道子『未来からの過去』より)
この金持ちは門前に群がる病人や乞食を「見た」という想像もできる。金持ちがアブラハムの懐に抱かれる男を一目見て、ラザロだと見抜けたのは、ラザロが目をそらすことのできない「とても気になる存在」であったからではないだろうか。金持ちは気が向けば僕に命じて門前の乞食たちに「食卓に落ちるパン」を配ることもあったろう。それすらなくて、何故、乞食たちが門に群がるだろうか。金持ちはラザロを「見たが、取り合わなかった」のは事実であろう。しかし、金持ちは彼らに「取り合うこと」がどういうことかを知っていた。そして、そこに「空しさ」を「見てしまった」ゆえに、彼自身が地獄に落ちたのではなかったか?
(†心のデボーション02382)
† 心のデボーション 02383
「シメオン、イエスを取りいだき、神を讃めて言ふ」 ルカ2:28 大正文語訳聖書
「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、」 口語訳聖書
「曲げた腕」
マリヤとヨセフが幼子イエスを神殿につれていくと、老祭司シメオンは「幼子イエスを腕に抱いた」(ルカ2:25~38)。「腕に抱くἀγκάλη」は「(ものを受け取るために)曲げられた腕」の意味である。シメオンは「尊きもの」を受け取ろうとして腕を曲げ「幼子イエス」を受けとったのである。生まれたばかりのわが子を受け取る父親の「腕」もその重みを感じることであろう。
(†心のデボーション02383)
† 心のデボーション 02384
「サタンよ、退け『主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし』」 マタイ4:10 大正文語訳聖書
「そこで、イエズスは仰せになった。「サタンよ、退け。『あなたの神、主を拝み、ただ主のみに仕えよ』と書き記さている」 フランシスコ会訳聖書
「悪魔礼拝」
現代文明の中には「悪魔礼拝」が存在する。その多くは無神論からのもので、神も悪魔も本当には信じられてはいない。単なるパフォーマンスであっても、それを芸術の表現手段として受け入れることの中に魂の危険性は存在するのではないか。
(†心のデボーション02384)
† 心のデボーション 02385
「されど奧なる幕屋には、大祭司のみ年に一度おのれと民との過失のために献ぐる血を携へて入るなり。」 ヘブル9:7 大正文語訳聖書
「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」 新改訳聖書
「無知による罪」
大祭司は年に一度だけ至聖所に入り、「自分のために、また、民が知らずに犯した罪のため」に、犠牲の血をささげた。「知らずに犯した罪 ἀγνόημα」は「自覚しない罪」である。「無知による罪」とも訳される。人には多くの「知らずして犯す罪」がある。大祭司は年に一度、民の「無自覚な罪」のためにも贖いの血を神殿に捧げた。
(†心のデボーション02385)
† 心のデボーション 02386
「ねがはくは朝にわれらを汝のあはれみにてあきたらしめ 世をはるまで喜びたのしませたまへ」 詩篇90:14 明治元訳聖書
「あしたに、あなたのいつくしみをもって/われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてくださ」 口語訳聖書
「うぬぼれ鏡」
いくつかある鏡の中に、自分が特別きれいに映ってみえるのがあり、そんな鏡を「うぬぼれ鏡」というそうである。外で人に会う前にちょっとのぞくのも悪くはない。一日を鏡の中の自分で過ごせるかもしれないからだ。ただ、あまり頻繁に覗く鏡ではない。世の中には、他人の「うぬぼれ鏡」をたくさんもっている人がいる。そんな鏡があったら是非ほしいという人は、その人から分けてもらうのが早道であるが、やはり、おすすめはできない。
(†心のデボーション02386)
† 心のデボーション 02387
「善を行ひて愚なる人の無知の言を止むるは、神の御意なればなり。」 Ⅰペテロ2:15 大正文語訳聖書
「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」 口語訳聖書
「恥ずべき無知」
「愚かな者」の「無知な発言 ἀγνωσία」は知識が足りないという意味ではなく、「神のγνῶσισ(霊的認識)」を持たないことを意味している。「恥ずべき無知」と訳される。「心の貧しい者」(マタイ5:3)とは「神のγνῶσισ(霊的認識)」に決定的に欠けているゆえに、それを求めて渇く人のことである。
(†心のデボーション02387)
† 心のデボーション 02388
「事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、愛をもて互に忍び」 エペソ4:2 大正文語訳聖書
「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、」 口語訳聖書
「心の低い」
自分よりも優れていると認めることを「一目置く」という。囲碁では弱い者が強い相手に敬意をしめすために、まず石を置くことから来ている。先手をとらせてもらうことで自分よりも強い相手と認める行為である。相手に遠慮せずに立ち向かうことが謙虚さになる。聖書の「謙虚 Ταπεινοφροσύνη」は「低い、心の低い、へりくだった」の意味である。
(†心のデボーション02388)
† 心のデボーション 02389
「われは世にある旅客なり 我になんぢの誡命をかくしたまふなかれ」 詩篇119:19 明治元訳聖書
「わたしはこの地にあっては寄留者です。あなたの戒めをわたしに隠さないでください。」 口語訳聖書
「地では旅人」
「私は地では旅人です」(新改訳聖書)と詩人は告白する。何かと別れて、人は旅に出る。新しく出会うには、身になじみ親しんだものを残して出発するしかない。得たものを何一つ失うまいとすれば、人は成長することができない。捨てなければ、出会えないものが人生にはある。しかし、捨てるものを間違えると、さんざんな旅になるかもしれない。
(†心のデボーション02389)
† 心のデボーション 02390
「常にさまざまの祈と願とをなし、御靈によりて祈り、また目を覺して凡ての聖徒のためにも願ひて倦まざれ。」 エペソ6:18 大正文語訳聖
「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」 口語訳聖書
「目を覚まして」
「目を覚まして ἀγρυπνέω」は「目を覚ましている、眠らない」で「注意を怠らず見張る」の意味である。祈りの目は閉じてはならない。夜回りが夜を徹して見張るように、神経を尖らせ、怠ることなく、ことの推移を見守らなければならない。昼のわざのために祈るだけでなく、夜の暗闇のためにも祈れ。
(†心のデボーション02390)
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