心のデボーション238

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† 心のデボーション 02371

「ヱホバは虐げらるるものの城また難みのときの城なり」 詩篇9:9 明治元訳聖書

「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。」 新改訳聖書

 「暴れ川」

武田信玄が暴れ川に頭を悩ませていた時、ある部下がうず巻く濁流に、先をとがらせた巨石を投じて、流れを二つに割ってはどうかと提案した。さっそく実行してみると効果があったという。問題は細分化して割り算をすると、取り組みやすくなる。にっちもさっちもいかないのは、その逆で、何でもない小さな流れをいくつも合わせて、たし算で暴れ川にしているのかもしれない。

(†心のデボーション02371)

† 心のデボーション 02372

「ヱホバ神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり人即ち生靈となりぬ」 創世記2:7 明治元訳聖書

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 新改訳聖書

 「からだ」

「からだ」という日本語は、古くは「殻」と言った。「殻」は魂の器の意味で、魂のこもらないからだを「肉体」、魂を宿したからだは「身(み)」と呼ばれ、人の死体は「魂が抜けた器」として「亡骸 なきがら」と呼ばれた。創世記には、神が人に「いのちの息」を吹き込まれると、人は「生きもの」になったとある。(創世記2:7) 「からだ」には「肉と魂と霊と心」が宿っており、いずれも「いのち」である。

(†心のデボーション02372)

† 心のデボーション 02373

「多の友をまうくる人は遂にその身を亡す 但し兄弟よりもたのもしき知己もまたあり」 箴言18:24 明治元訳聖書

「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」 口語訳聖書

 「一つの魂」

アリストテレスは、「What is a friend? A single soul dwelling in two bodies. 友とは何か? 二つの肉体に宿れる一つの魂である」と言った。立場は異なっていても、「一つの魂」を感じる相手は「友」と考えてよい。人は意外と多くの「友」をもっているものだ。
(†心のデボーション02373)

† 心のデボーション 02374

「サタンよ、退け『主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし』」 マタイ4:10 大正文語訳聖書

「そこで、イエズスは仰せになった。「サタンよ、退け。『あなたの神、主を拝み、ただ主のみに仕えよ』と書き記さている」 フランシスコ会訳聖書

 「あなたの神」

サタンに対しても、「汝の神、主 Κύριον τὸν θεόν σου を拜し」と語られる。サタンは神を否定する者ではなく、最も深く神を知り、かつ恐れる存在である(その恐れは本物である)。そのゆえに、イエスはサタンに「あなたの神を拝し」と言われる。

(†心のデボーション02374)

† 心のデボーション 02375

「われ書をロマに在りて神に愛せられ、召されて聖徒となりたる凡ての者に贈る。願はくは我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。」 ロマ7:1 大正文語訳聖書

「ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」 口語訳聖書

 「神に愛され」

パウロはローマにいる人々に「神に愛されている人々」と呼びかける。「神に愛されている ἀγαπητός  アガペートス」は「かわいがられている、こよなく大事な」の意味である。神を慕う人は、自分では気づかずにいるが、実は、「神にかわいがられている」のである。神がこよなく大事にしているものを「つまらない者」などと思うべきではない。

(†心のデボーション02375)

† 心のデボーション 02376

「なんぢの救のよろこびを我にかへし自由の霊をあたへて我をたもちたまへ」 詩篇51:12 明治元訳聖書

「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。」 口語訳聖書

 「喜んで仕える霊」

友として生き生きとした関係を続けるには、互いの間に自由が何よりも大切にされなければならない。親密な関係になればなるほど互いに自由を放棄すべきだというのは間違いである。いつかその自己犠牲がつらい経験に変わる。ダビデはバテシバのことで友を裏切った。そして、それによって自分が自由をはきちがえていたことに気づくのである。神に仕える人は「喜んで相手に仕える霊」に支えられ、生きる。

(†心のデボーション02376)

† 心のデボーション 02377

「有る者を亡さんとて世の卑しきもの、輕んぜらるる者、すなわち無きが如き者を選び給へり。」 Ⅰコリント1:28 大正文語訳聖書

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」 口語訳聖書

 「無きに等しき者」

「この世で身分の低い者 ἀγενής」は「卑しい者、卑賎の者」の意である。人は「尊き」ゆえに神に選ばれたのではない。卑しく卑賎な「ἀγενής」であるゆえに選ばれたのである。ああ、「無きに等しき者」の幸いよ! あなたは自分の存在に気づいたゆえに幸いなのだ。

(†心のデボーション02377)

† 心のデボーション 02378

「陰府と沉淪とはヱホバの目の前にあり 况て人の心をや」 箴言15:11 明治元訳聖書

「陰府と滅びとは主の目の前にあり、人の心はなおさらである。」 口語訳聖書

 「一網打尽」

オレオレ詐欺などの悪党を根こそぎにすることを「一網打尽」という。元々は網で一度に大量の魚をとることの意味であったが、次第に敵を包囲して攻め落とすとの意味につかわれるようになった。魚は陸に上げられるまでそれと気づかないように、現代は途方もない大きな網で、何もかも「一網打尽」にしようとする企みがあって、人はそのときまで包囲されたも知らずにいるのではないかというような妄想に駆られるときがある。

(†心のデボーション02378)

† 心のデボーション 02379

「ゲラルの牧者此水は我儕の所屬なりといひてイサクの僕と爭ひければイサク其井の名をエセク(競爭)と名けたり彼等が己と之を競爭たるによりてなり」 創世記26:20 明治元訳聖書

「ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。」 口語訳聖書

 「争気ある人」

イサクが井戸を堀りあてると、ゲラルの人々は「それはわれわれのものだ」と争いをしかける。するとイサクは、その井戸を放棄して「ほかの井戸」を掘るのである。中国の古典「簡子」には「争気ある者とは、ともに弁ずるなかれ」ということばがある。争いを好む人とは話し合うよりも「そこから移って、ほかの井戸を掘る」という生き方もある。やがて、争気ある人々の方から和睦をもとめてくるかもしれない。

(†心のデボーション02379)

† 心のデボーション 02380

「主はわれとものいひ且そのごとくみづから成たまへり われ何をいふべきか わが世にある間わが靈魂の苦しめる故によりて愼みてゆかん」 イザヤ38:15 明治元訳聖書

「何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行われたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。」 新改訳聖書

 「歩み」

マルクス・ウァレリウス・マルティアリス(マールティアーリス、Marcus Valerius Martialis)の詩に「Ubi est? Aut unde petendum? (明日は)どこにいる。そしてどこで得る?」という言葉がある。「明日からがんばろう」という者に告げる言葉であろう。「Nunc aut numquam. 今(やる)か?決して(やら)ないか?」という格言もある。「明日」は「今」にしかない。

(†心のデボーション02380)

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