† 心のデボーション 02361
「まづ彼らを試みて責むべき所なくば、執事の職に任ずべし。」 Ⅰテモテ3:10 大正文語訳聖書
「彼らはまず調べられて、不都合なことがなかったなら、それから執事の職につかすべきである。」 口語訳聖書
「汚れにつかえる」
初代教会には「執事 διάκονος」と呼ばれる人がいた。ギリシャ語で「執事 διάκονος」は「ほこりやゴミを通して」と読める。給仕が客の足もとにかがんで、水でほこりを洗ったことからきているのかもしれない。
人の汚れにつかえ、そっと洗うことのできる人である。奉仕者は、自分が「ほこりやゴミ」にまみれることを厭わない。つかえることで、それらが洗い流されるからである。
(†心のデボーション02361)
† 心のデボーション 02362
「我は祈る、汝らの愛、知識ともろもろの悟とによりて彌が上にも増し加はり、」 ピリピ1:9 大正文語訳聖書
「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、」 口語訳聖書
「愛のために」
「するどい感覚πάσῃ αἰσθήσει」の「感覚 αἴσθησις」は「(道徳的な)敏感さ、感覚」を意味し、「するどい πάσῃ」
の元型は「πᾶς あらゆる、すべての、混じりけのない、純粋な」である。「愛」が「深い知識においても」、「鋭い道徳的感覚」においても、いよいよ増し加えられるように祈れ。
(†心のデボーション02362)
† 心のデボーション 02363
「太初(はじめ)に道(ことば)あり道(ことば)は神偕にあり道(ことば)は即ち神なり」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「神のアルファベット」
ソクラテスは「Mathematics is the alphabet with which God has written the Universe 数学は神が宇宙を書くためのアルファベットだ」と言ったそうである。ヨハネ福音書には「初めに言があった。 ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος」とあり、「ことば ὁ λόγος」が天と地を創ったと記す。
(†心のデボーション02363)
† 心のデボーション 02364
「爾(なんぢ)もし俯伏(ひれふし)て我(われ)を拜(はい)せば此等(これら)を悉(みな)なんぢに與(あた)ふべしと曰(いふ)」 マタイ4:9 大正文語訳聖書
「イエスに言った。『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むならば、これらのものを皆あなたにあげよう』」 フランシスコ会訳聖書
「富」
「富」を求めることを不信仰としてはならない。
「汝の神ヱホバを憶えよ其はヱホバ汝に資財を得の力をたまふなればなり斯したまふは汝の先祖等に誓し契約を今日の如く行はんとてなり」 申命記8:18
神は「主に心を据える者」に「富を築き上げる力を与えられる」。
(†心のデボーション02364)
† 心のデボーション 02365
「されど汝これを知れ、末の世に苦しき時きたらん。」 Ⅱテモテ3:1 大正文語訳聖書
「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。」 口語訳聖書
「終りの日」
Ⅱテモテ3:1~6
聖書協会共同訳聖書
このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒瀆し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり、神よりも快楽を愛し、見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
この御言葉を読めば、「終りの日」とは、人の心に入った「現代」のことであることが分かる。
(†心のデボーション02365)
† 心のデボーション 02366
「かれらは年わかくして死亡せ 男娼とその生命をひとしうせん」 ヨブ36:14 明治元訳聖書
「彼らは年若くして死に、/その命は恥のうちに終る。」 口語訳聖書
「いのちの腐れ」
怒りをたくわえる者のたましいは、「若くして死に」そのいのちは「腐れている」とエリフはヨブに語る。怒りはたくわえてはいけないものである。ためこまれた怒りには「たましいの死」と「いのちの腐れ」という利息が盛大につくからである。パウロも「怒っても罪を犯してはなりません」(エペソ4:26)と語る。怒ってもあなたを憎んでいるわけではない、ただ、自分が哀しいのだと相手に伝えればよいのではないか。
(†心のデボーション02366)
† 心のデボーション 02367
「執事もまた同じく謹嚴にして、言を二つにせず、大酒せず、恥づべき利をとらず、」 Ⅰテモテ3:8 大正文語訳聖書
「それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、」 口語訳聖書
「汚い金儲け」
「執事は利をむさぼらず」と言われる。「利をむさぼらず αἰσχροκερδής」は「αἰσχρο 卑しい、恥ずべき、醜い + κερδής 利を得る、儲ける」から来ている。「卑しく、恥ずべき利得」というものがある。「汚い金儲け」のことである。教会に仕える者は「汚い金儲け」に走らない人でなければならない。
(†心のデボーション02367)
† 心のデボーション 02368
「もろもろの人をてらす眞の光ありて、世にきたれり。」 ヨハネ1:9 大正文語訳聖書
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」 口語訳聖書
「七味唐辛子」
「一味 いちみ」という言葉は悪事をたくらむ仲間の意味に用いられる。しかし、元々は、仏教では河が海に入ると「一つの味」に混ざるように、男女・貴賤のない世の中を意味したそうである。良い意味をもつ言葉も時を経ると悪しき意味に傾くのだろうか。「一味唐辛子」のように一つの味の世の中よりも、「七味唐辛子」の方が良いように思える。
(†心のデボーション02368)
† 心のデボーション 02369
「山崖の巖屋に居り高き處に住む者よ 汝が心の傲慢なんぢを欺けり 汝心の中に謂ふ誰か我を地に曵くだすことを得んと」 オバデヤ1:3 明治元訳聖書
「岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。あなたは心のうちに言う、『だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか』。」 口語訳聖書
「欺き」
教会にはサギ師も来る。被害にあった牧師からの情報では、訪問する前に必ず駅前から電話してくるということである。「今、駅前にいます」という電話で「彼だ」と分かった。ていねいに「お待ちしています」と答えたが、サギ師は現われなかった。サギ師も、この牧師は怪しいと感じたのかもしれない。こちらの「欺き」を見抜かれたわけで、この勝負、牧師の負けである。
(†心のデボーション02369)
† 心のデボーション 02370
「信に諸の岡とおほくの山に救を望むはいたづらなり」 エレミヤ3:23 明治元訳聖書
「まことに、もろもろの丘は迷いであり、山の上の騒ぎも同じです。」 口語訳聖書
「迷いの丘」
「Errare humanum est. 人は過ちをする」は「人は迷うもの」とも訳せると、山下太郎さんの「ラテン語入門」にある。「errāre」は「誤る、道に迷う、罪を犯す」の意味があるからである。「人は過つ」ことも「罪を犯せる」ことも、「迷い出る」できる存在である。
(†心のデボーション02370)
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