心のデボーション235

デボーション1
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† 心のデボーション 02341

「我笑を論ふ是は狂なり 快樂を論ふ是何の爲ところあらんやと」 伝道2:2 明治元訳聖書

「笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう」 新改訳聖書

 「笑い」

「笑いか。ばからしいことだ」と伝道者はいう。しかし、彼は笑いを捨てたのではない。短い一生の間、何が良いかを見極めるまでは、その「ばからしい愚かさを身につけていよう」と考える。多くの日の後、伝道者は「神を離れて、だれが楽しむことができようか。」という結論に至る。伝道者は静かに笑っているのではないだろうか。

人に笑いを与えるのは神である。(ヨブ記8:21)

(†心のデボーション02341)

† 心のデボーション 02342

「盜する者は今よりのち盜すな、むしろ貧しき者に分け與へ得るために手づから働きて善き業をなせ」 エペソ4:28 大正文語訳聖書

「盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。」 聖書協会共同訳聖書

 「真面目」

「まじめ」ということばの語源は「正(まさ)しき目」、「真し目」、「真筋目」など諸説ある。真顔でまじまじと見ることから来ているらしい。あまりにまじめすぎると、それ以外が見えなくなることもあり、多少の不真面目もあったほうがよいこともある。だが、基本がまじめな人はそれが苦手だ。無理矢理に不真面目をやるのも辛いものだ。聖書の「真面目に κοπιάω」は「(肉体的にも精神的にも)骨を折って働く」の意味である。

(†心のデボーション02342)

† 心のデボーション 02343

「人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ」 マタイ5:41 大正文語訳聖書

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」 新改訳聖書

 「天下を動かさんとせば」

「天下を動かさんとするものは先ず自ら動くべし Let him who would move the world, first move himself.」(ソクラテス Socrates ) たとえ、「天下」でなくても、小さな自分の世界であっても、動かしたければまず自ら動くことだ。

(†心のデボーション02343)

† 心のデボーション 02344

「爾(なんぢ)もし俯伏(ひれふし)て我(われ)を拜(はい)せば此等(これら)を悉(みな)なんぢに與(あた)ふべしと曰(いふ)」 マタイ4:9 大正文語訳聖書

「イエスに言った。『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むならば、これらのものを皆あなたにあげよう』」 フランシスコ会訳聖書

 「偽りの父」

サタンに「世界の諸國(くにぐに)とその榮華(えいぐわ)とを見(み)せ」られ、「此等(これら)を悉(みな)なんぢに與(あた)ふべし」と言われて、心を動かさない者はいないだろう。「爾(なんぢ)もし俯伏(ひれふし)て我(われ)を拜(はい)せば」という言葉さえなければ、心地よい夢ですらある。だが、サタンは「この世の君」(ヨハネ12:31)と呼ばれるが、また「偽りの父」(ヨハネ8:44)である。サタンが約束するのは、偽りの「世界の諸國(くにぐに)とその榮華(えいぐわ)」である。

(†心のデボーション02344)

† 心のデボーション 02345

「われ人にもちゐる索すなはち愛のつなをもて彼等をひけり」 ホセア11:4 明治元訳聖書

「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」 新改訳聖書

 「愛のきずな」

イスラエルは神に家畜のように綱で引かれなければならなかった。引かれる家畜は綱に抵抗する。しかし、綱で引くのはよき牧場に連れて行くためである。強いられて後に、それが愛の綱であったことがわかる。

(†心のデボーション02345)

† 心のデボーション 02346

「よき音信をシオンにつたふる者よ なんぢ高山にのぼれ 嘉おとづれをヱルサレムにつたふる者よ なんぢ強く聲をあげよ こゑを揚ておそるるなかれ ユダのもろもろの邑につけよ なんぢらの神きたり給へりと」 イザヤ40:9 明治元訳聖書

「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と。」 口語訳聖書

 「高き山に登れ」

「良い知らせ」を伝える者に「高い山に登れ」と命じられるのは、そこで「力の限りに声を上げ」少しでも遠くに呼ばわるためである。もう一つの理由は「良き知らせ」を受けるのに、高き山こそがふさわしいからではないだろうか。敵に追われて洞穴に逃げたエリヤに、主は「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じられる。良い知らせを伝える人は、いつもそこで主の「かすかな細い声」を聴くのである。

(†心のデボーション02346)

† 心のデボーション 02347

「預言者イザヤの書に、 『視よ、我なんぢの顏の前に、わが使を遣す、 彼なんぢの道を設くべし』」 マルコ1:2 大正文語訳聖書

「預言者イザヤの書に、「見よ、わたしはあなたの先にわたしの使いを遣わし、あなたの道を整えさせよう」 フランシスコ会訳聖書

 「道を整える」

主の使いは「私の顔の前に」、「私の道を」整えるために遣わされる。目前の出来事に神の備えがある。「私の目の前」に「私の道」がある。日々私は整えられなければならない。「顔の前」を見つめよ。

(†心のデボーション02347)

† 心のデボーション 02348

「イスラエルよ然ば我かく汝に行はん 我是を汝に行ふべければイスラエルよ汝の神に會ふ準備をせよ」 アモス4:12 明治元訳聖書

「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」 口語訳聖書

 「一大事」

何かとてつもない悪いことが起こることを「一大事」というが、元来、「一大事」は仏教用語で仏がこの世にあらわれた理由を指すことばで、物事の根源を意味するという。信仰が「一大事」であることは論をまたない。しかし、それに気づかずにいることは「悪しき一大事」かもしれない。

(†心のデボーション02348)

† 心のデボーション 02349

「斯る事は我おほく聞り 汝らはみな人を慰めんとして却つて人を煩はす者なり」 ヨブ16:2 明治元訳聖書

「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。」 口語訳聖書

 「煩わしい慰め手」

友人はヨブに、「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる」と慰める。今は苦しく暗くても望みはある、やがて朝になれば苦しみを忘れ安らかに休めるというのである。こういう慰めが意味をもつのは、苦しみの中にある人がそういう気持ちになれた時だけである。まだ、その気持になれないヨブにとって、友人のことばは、「煩わしい慰め」に過ぎない。軽々しい気休めは、苦しむ人をさらに傷つけるだけである。

(†心のデボーション02349)

† 心のデボーション 02350

「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1 明治元訳聖書

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」 新改訳聖書

 「分割して統一せよ」

ラテン語の格言に「Divide et impera.  分割して統一せよ」といわれている。パソコンのプログラムをつくる人は、この格言が腑に落ちるという。大きく難しい問題は分割して解決していくとよいかもしれない。だが、その時には、時々俯瞰してみることを忘れないことだ。

(†心のデボーション02350)

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