† 心のデボーション 02331
「わが心生命を厭ふ 然ば我わが憂愁を包まず言あらはし わが魂神の苦きによりて語はん」 ヨブ10:1 明治元訳聖書
「わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、/わが魂の苦しみによって語ろう。」 口語訳聖書
「不平をぶちまける」
不平を聞くのは難しいものだ。いいかげんに聞き流せば「真剣に聞いてくれない」と怒られ、「それは不平だ」と口をはさめば「私のことをわかってくれない」と責められる。しかし、どこかで「ぶちまけて」しまわなければ明るくなれないのが不平である。上手な不平のこぼし方などない。盛大にぶちまけてあとは明るく「あー、すっきりした。聞いてくれてありがとう」とお礼をいうのはどうか? 感謝があれば不平はそれほど聞きにくいものではない。
(†心のデボーション02331)
† 心のデボーション 02332
「柔和なる答は憤恨をとどめ厲しき言は怒を激す」 箴言15:1 明治元訳聖書
「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす」 口語訳聖書
「柔らかい答」
怒りは、声を大きくすると、ますます怒りたくなるものだ。声が怒りを励ますのである。大きな声の怒りは、それほど怖くない。本当に怖いのは、静かな声で怒ることだ。
(†心のデボーション02332)
† 心のデボーション 02333
「それ我らが受くる暫くの輕き患難は、極めて大なる永遠の重き光榮を得しむるなり。」 Ⅱコリント4:17 大正文語訳聖書
「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」 口語訳聖書
「苦悩を知る」
ダンテ(Dante Alighieri)は、「The path to paradise begins in hell. 天国への道は地獄からはじまる。」と言う。苦悩を知ることなしに天国を知ることはできない。ダンテの『神曲』は地獄篇、浄罪篇、天堂篇からなっている。『神曲』を読む者は、まず「暗闇の森」に分け入ることが求められるのである。
(†心のデボーション02333)
† 心のデボーション 02334
「惡魔またイエスを最高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ」 マタイ4:8 大正文語訳聖書
「また悪魔は、イエズスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とそのはなやかさとを見せて」 フランシスコ会訳聖書
「栄華」
「栄華」は「栄花」とも書く。「華」は「丸い花」をさし、草木の花が美しく咲くさまをあらわす。中国では「中華人民共和国」のように、「中華」を漢民族の自称として中国、中国人を指した。「華」に対して他国は「夷 い(背の低い人)」である。しかし、「華」はいくら美しくも、やがて散るもので、その繁栄はすぐ醒める「栄華の夢」である。
(†心のデボーション02334)
† 心のデボーション 02335
「光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」 口語訳聖書
「曉 あかつき」
「やみはこれに勝たなかった」を明治元訳聖書は「暗(くらき)は之を曉(さと)らざりき」と訳している。「曉 あかつき」は、太陽が昇るまえのほの暗い時刻をさすことばである。そこから「曉 あかつき」は「さとる。よく知る。はっきりとわかる。」を意味するようになった。やがて「あかつき」は「しののめ」「あけぼの」と次第に明るさを増してゆく。「光」が差し始め、暗黒のなかに夜明けの明るさがはじまったが、「闇」は「光」を「さとる、よく知る、はっきりとわかることがなかった」の意味である。
「あかつき」「しののめ」「あけぼの」へと次第に明るさを増してゆく悟り方がある。
(†心のデボーション02335)
† 心のデボーション 02336
「正義をして勝ち遂げしむるまでは、 傷へる葦を折ることなく、 煙れる亞麻を消すことなからん」 マタイ12:20 大正文語訳聖書
「正義に勝利を得させるまでは、彼は折れた葦を切り離さず、くすぶっている灯心を消さない」 フランシスコ会訳聖書
「白い蝶」
キューブラー・ロスがポーランドのマイダネク収容所で見たのは壁という壁に描かれた無数の蝶であった。それは死を待つユダヤ人の子どもたちが、石のようなもので壁をこするようにして描いた白い蝶であった。子どもたちにとって死はサナギから蝶に変身するプロセスとしてとらえられたのだろうか。この蝶は見る人の心の怒りを慰める。希望の蝶である。
(†心のデボーション02336)
† 心のデボーション 02337
「嘲笑人は城邑を擾し 智慧ある者は怒をしづむ」 箴言29:8 明治元訳聖書
「あざける人は町を乱し、知恵ある者は怒りを静める。」 口語訳聖書
「内なる怒り」
人へのあざけりが町を乱すとき、知恵ある者は怒りを鎮める。あざけりの飛び交う町を鎮めるとは、まず、自分自身の内なる怒りから始めなければならない。自分自身の怒りを鎮めることなしに人の怒りを鎮めることができようか。
(†心のデボーション02337)
† 心のデボーション 02338
「わが霊魂よなんぢの平安にかへれ ヱホバは豊かになんぢを待ひたまへばなり」 詩篇116:7 明治元訳聖書
「わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである」 口語訳聖書
「いちころ」
あっけなく事が片付くことを「いちころ」という。「いちころ」は「一度でころり」から来たそうである。あっけなく死ぬことも「いちころ」というに至った。成田山薬師寺の参道に「ぴんころ地蔵」と呼ばれる地蔵尊があり、元気に長生きして、寝込まずに逝きたいと願いに応えてくれるという。願わしい「いちころ」というものもある。
(†心のデボーション02338)
† 心のデボーション 02339
「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書
「あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。」 口語訳聖書
「嫌悪感」
甘えようとして差し出した手を母親から手厳しく退けられて、さみしい思いをした人が親になって、かつての母親のようにわが子を退けている自分に驚くことがある。自分の内に嫌悪していた母親と同質のものを見いだすことへの驚きである。嫌いだった母親と和解し、許すことが大切なのだ。それは、自分の「隠れた罪」と対決することにもなる。母親と和解することができれば、傷ついた内なる子どもは癒され、子どもを愛情をもって叱ることができるようになる。
(†心のデボーション02339)
† 心のデボーション 02340
「わが心はうるはしき事にてあふる われは王のために詠たるものをいひいでん わが舌はすみやけく寫字人の筆なり」 詩篇45:1 明治元訳聖書
「わたしの心はうるわしい言葉であふれる。わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ。」 口語訳聖書
「諸刃の剣」
「Calamus gladio fortior. ペンは剣よりも強し」は19世紀イギリスの小説家で劇作家、政治家であったリットン(Lytton)の戯曲「リシュリュー」(Richelieu)の一節だそうである。しかし、ペンは剣よりも強い「諸刃の剣」でもある。
(†心のデボーション02340)
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