心のデボーション232

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† 心のデボーション 02311

「なんぢの手はわれを造りわれを形づくれり ねがはくは智慧をあたへて我になんぢの誡命をまなばしめたまへ」詩篇119:73 明治文語訳聖書

「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください」 新改訳聖書

 「かけがえのない私」

神はその御手をもって一人一人をかけがえのないユニークな存在として造られた。彫刻家は大理石で像をきざむのではなく、大理石から像でない部分を除くのだという。自分を知り、本当の自分になるというのは、自分にノミを当て、自分でないものを除いていくことかもしれない。他人と自分を比較して自己嫌悪しているヒマはない。自分の個性を高く評価し喜ぶことは自分にしかできない作業である。

(†心のデボーション02311)

† 心のデボーション 02312

「われ毀傷をうく嗚呼われは禍なるかな我傷は重し我いふこれまことにわが患難なりわれ之を忍べし」 エレミヤ10:19 明治元訳聖書

「わたしはいたでをうけた、ああ、わざわいなるかな、わたしの傷は重い。しかしわたしは言った、『まことに、これは悩みである。わたしはこれを忍ばなければならない』と。」 口語訳聖書

 「デジタル回路」

デジタル回路は、すべて1と0の不連続な値からなっている。その回路素子には「ピュリダンのロバ」と呼ばれる一つの問題がるという。「ピュリダンのロバ」は14世紀のスコラ哲学者ピュリダンの寓話から来ている。お腹をすかせたロバの前に全く同量の干し草の山が2つあり、ロバはどちらを食べようか迷っているうちに餓死してしまった。回路素子が1か0かどちらを選ぶか決めかねては自滅する。そこで1と0の間に中間の値がとれないように工夫がされているという。人間の脳は1か0かでおおいに悩むようにできていて、それが個性を形成する仕組みになっているようだ。

(†心のデボーション02312)

† 心のデボーション 02313

「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ」 黙示3:15 明治元訳聖書

「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」 新改訳聖書

「お前は冷たくもなく熱くもない。むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを」 フランシスコ会訳聖書

 「気持ちの悪い微温」

「心とは、満たされるべき器ではなく、燃やされるべき炎なのだ。The mind is not a vessel to be filled, but a fire to be kindled.」(プルタルコス)

ラオデキヤの教会は冷たくもなく熱く(沸騰すること)もなかった。それゆえ神は「あなたを口から吐き出そう」(黙示3:16 口語訳聖書)と言われる。この「なまぬるさ χλιαρός」はおもわず口から吐き出したくなるようは気持ちの悪い「微温」だ。

(†心のデボーション02313)

† 心のデボーション 02314

「われ詔命(みことのり)をのべんヱホバわれに宣まへり なんぢはわが子なり今日われなんぢを生り。われに求めよ さらば汝にもろもろの國を嗣業(ゆづり)としてあたへ地の極(はて)をなんぢの有(もの)としてあたへん」 詩篇2:7~8 明治元訳聖書

「主のさだめられたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし地の果てまで、お前の領土とする』」 新同訳聖書

 「悪魔の囁き」

詩篇2:7~8は神がイエスに与えたことばである。そこで悪魔は詩篇2:7~8から、イエスに「なんぢはわが子なり今日われなんぢを生り」と告げ、その上で、「われに求めよ さらば汝にもろもろの國を嗣業(ゆづり)としてあたへ地の極(はて)をなんぢの有(もの)としてあたへん」と約束するのである。

悪魔は自分に従いさえするなら、神が与えると同じ祝福を与えようと誘惑する。それはすべての偽りの中で最大のものである。

悪魔が「なんぢはわが子なり今日われなんぢを生り」と囁く声を聞いたら、たとえそれが「もろもろの國」と「地の極(はて)」の所有と引換であっても、聞いてはならぬ。

(†心のデボーション02314)

† 心のデボーション 02315

「荊棘あまねく生え薊その地面を掩ひ その石垣くづれゐたり」 箴言24:31 明治元訳聖書

「いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた」 口語訳聖書

 「怠け者の畑」

怠け者の畑には「いばらとあざみ」が生える。「いばら קמּ‏ְשֹׂנִים」はいらくさのことで「無用の草」とされる。「あざみ ‎ח‏ָרוּל」も「いらくさ」と訳されることもあるが、キツネノマゴ科のシリア・ハアザミである。畑にいばらとアザミが生えるのはのろいと荒廃の象徴である。葉の棘にさされる痛みに耐えても引き抜かなければならない。

(†心のデボーション02315)

† 心のデボーション 02316

「わがこころは草のごとく撃れてしほれたり われ糧をくらふを忘れしによる」 詩篇102:4 明治元訳聖書

「わたしの心は草のように撃たれて、しおれました。わたしはパンを食べることを忘れました。」 口語訳聖書

 「ふさぎの虫」

ふさぎの虫はよほど隠れが上手である。ふだんは、めったに姿をみせないが、隠れるのにも飽きるのか、思わぬところでひょっこり顔をみせたりする。ヨーロッパにはふるくから肝臓が人の気分を支配しているとの伝承があり、ふさぎの虫はそこあたりに潜んでいると考えられたようである。ふさぎの虫が出てきたら、邪険にしないことである。せっかく出てきたのだから、お近づきの挨拶などしていると、礼儀正しく暇を告げて帰っていく。

(†心のデボーション02316)

† 心のデボーション 02317

「ヱホバよねがはくは虚偽のくちびる欺詐の舌よりわが霊魂をたすけいだしたまへ 」 詩篇120:2 明治元訳聖書

「主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください」 口語訳聖書

 「欺きの舌」

「欺きの舌 לשׁוֹן ר‏ְמִיָּה」は「だらしなく、緩んだ、怠慢の、欺きの舌」の意味である。作者は神に「自分に対するあらゆる欺きの舌」から守ってくださるように祈る。そして、彼は、「あらゆる、だらしのない、緩んだ、怠慢の、欺き」から「自分の舌」を守ってくださるようにと祈るのである。

(†心のデボーション02317)

† 心のデボーション 02318

「汝らの中間にその男子女子をして火の中を通らしむる者あるべからずまた卜筮する者邪法を行なふ者禁厭する者魔術を使ふ者」 申命18:10 明治元訳聖書

「あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、」 口語訳聖書

 「一か八か」

「一か八か」という言葉は、サイコロ賭博で偶数を「丁」、奇数を「半」として、「丁か半か」をかけたことから来ている。「丁」の字の上部から「一」、「半」の字の上部から「八」としたところから「一か八か」というが、要は博打である。

(†心のデボーション02318)

† 心のデボーション 02319

「汝らは夙くより我等なんぢらに對して辯明すと思ひしならん。されど我らはキリストに在りて神の前にて語る。愛する者よ、これ皆なんぢらの徳を建てん爲なり。」 Ⅱコリント12:19 大正文語訳聖書

「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対して弁明をしているのだと、今までずっと思ってきたであろう。しかし、わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのである。愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。」 口語訳聖書

 「天才」

タイガー・ウッズが21歳でマスターズ優勝したとき人々は驚いた。それまで、ほとんど無名の青年が、ある日突然デビューし、いとも簡単にボールをカップに沈めるのを見たからである。ウッズはそんな記者の質問に「私はかれこれ19年ほどボールをたたいているんです」と答えたそうである。つまり、やっと歩き始めたころ、すでにクラブを握っていたのである。天才は平凡の上に築かれるのだろうか。あるいは、平凡であることがすでに天才なのかもしれない。

(†心のデボーション02319)

† 心のデボーション 02320

「ヱホバはおのが民をよろこび 救にて柔和なるものを美しくしたまへばなり」 詩篇149:4 明治元訳聖書

「主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。」 口語訳聖書

 「来た、見た、勝った」

「veni vidi vici 来た、見た、勝った」は、古代ローマの皇帝カエサルが戦いに勝利して帰還した時に語ったとされる言葉である。しかし、巧みな戦術によって勝利を続けるカエサルも腹心の部下ブルータスたちの謀反によって倒される。「veni vidi vici」の圧倒的な勝利はどこか危うい。

(ちなみに、「veni vidi vici」は3つのvが連なることからラテン語の「v」の発声練習に使われたりする。)

(†心のデボーション02320)

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