† 心のデボーション 02301
「聖靈、形をなして鴿のごとく其の上に降り、かつ天より聲あり、曰く『なんぢは我が愛しむ子なり、我なんぢを悦ぶ』」 ルカ3:22 大正文語訳聖書
「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」 口語訳聖書
「わが子よ」
「無い子には苦労しない」という言葉がある。子どもに泣かされる親は、この子さえいなければと思う瞬間もあるかもしれない。しかし、「無い子に苦労させられる人」は少なくない。望んでも子どもに恵まれない夫婦には、泣かれても「わが子よ」と語りかける子どものいることが幸せに見えるであろう。泣かされる子どもにも、無い子どもにも、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」といってほしい。
(†心のデボーション02301)
† 心のデボーション 02302
「愚かなる者は惡をなすを戯れごとのごとくす 智慧のさとかる人にとりても是(かく)のごとし」 箴言10:23 明治元訳聖書
「愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ」 新改訳聖書
「ジョン・タウェル事件」
1845年1月1日ジョン・タウェル(John Tawell)は、ロンドン郊外で情婦サラ・ハート(Sarah Hart)を青酸の投与によって殺害し、列車でロンドンに逃走した。このことを知ったスロー駅の通信士が新たに発明され電信でロンドンのバディントン駅に知ら、タウェルは駅を立ち去ったが、待ち受けた警察によって翌日逮捕され、死刑に処せられた。こうしてタウェルは、遠距離通信の技術によって逮捕された最初の人物となった。
その後、人は技術の発達は新しい犯罪を生むことも知ることになった。
(†心のデボーション02302)
† 心のデボーション 02303
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「希望は失望に終わることはない」 口語訳聖書
「リンゴの木を植える」
「たとえ世界の終末が明日であっても、私は今日リンゴの木を植える Und wenn Morgen Weltuntergang ware,ich werde am heutige Tage doch Apfelbaumen pflantzen.(Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.)」。この言葉はマルティン・ルターのことばとして知られているが、ルターの書籍には見出せない。出典は不明でもルターの思想をよく現わすものとして受け入れられたのであろう。「希望」を
「希望 ἐλπίς エるピス(待望)」は「失望 καταισχύνω カタイスクノー(恥辱を与える、侮辱する、恥をかかせる、混乱におとしいれる))ことがない。
(†心のデボーション02303)
† 心のデボーション 02304
「惡魔またイエスを最高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ」 マタイ4:8 大正文語訳聖書
「また悪魔は、イエズスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とそのはなやかさとを見せて」 フランシスコ会訳聖書
「高い山」
「世のすべての国々」にローマ帝国を含むとすれば、その繁栄を見渡せるほどの「高い山」は存在しない。悪魔が世の国々とその繁栄を見せる「山」である。それは地上のどの山よりも抜きん出て高い。
異常な高さは、異常な低さと同じに危険である。あり得ない高みから見えるのは、あり得ない「国々」とその「栄華」である。だが、人は若いときばかりでなく、老いてからでもそれを見ることができてしまう。
異常な高さに行く者は、異常な低さにも下っている。
(†心のデボーション02304)
† 心のデボーション 02305
「異邦人は嘲弄し、唾し、鞭うち、遂に殺さん、かくて彼は三日の後に甦へるべし」 マルコ10:34 大正文語訳聖書
「また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」 口語訳聖書
「悪ふざけ」
十字架のイエスに祭司長、律法学者らは「あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう」。「あざけり ἐμπαίζω」は「愚弄する」の意味である。彼らは十字架のイエスにつばを吐きかけ、「悪ふざけ」をしたのである。「悪ふざけ ἐμπαίζω」は、それをする者には楽しくても、それを受ける者の心を最も深く踏みにじる行為である。
(†心のデボーション02305)
† 心のデボーション 02306
「わが霊魂よなんぢの平安にかへれ ヱホバは豊かになんぢを待ひたまへばなり」 詩篇116:7 明治元訳聖書
「わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである」 口語訳聖書
「全きいこい」
たましの「全きいこい」はどこにあるのだろうか。森の中の泉の「静かさ」をいこいと考えて、それを家庭に求めたくなるかもしれない。しかし、家族がいうべきこともいわずに、押し黙った「静かさ」は、いこいとはほど遠い。とすれば、時には波風も立つ、その思いをしっかりと受け止めることのできる家庭が「いこいの場」ではないだろうか。人はそのようにして、神とも「いこう」。
(†心のデボーション02306)
† 心のデボーション 02307
「夫愚なる者は憤恨のために身を殺し 癡き者は嫉媢のために己を死しむ」 ヨブ5:2 明治元訳聖書
「憤りは無知な者を殺し/妬みは思慮なき者を死に至らせる」 聖書協会共同訳聖書
「思慮の足りない嫉妬」
「思慮の足りない者」を口語訳聖書は「あさはかな者」、明治元訳聖書は「癡き者」と訳す。「癡」は物事を考え判断する力がたりないさまをいう。思慮の足りない嫉妬は人を死にいたらせる。
(†心のデボーション02307)
† 心のデボーション 02308
「これらの事はみな神より出づ、神はキリストによりて我らを己と和がしめ、かつ和がしむる職を我らに授け給へり」 Ⅱコリント5:18 大正文語訳聖書
「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。」 口語訳聖書
「痛み分け」
相撲で、取り組み中に一方が負傷すると勝負を引き分けにするのを「痛み分け」という。双方が「痛み」を負うかたちで決着を図る。しかし、実際には引き分けに終わらない「痛み分け」も多い。聖書の「和解 Καταλλάσσω カタるらスソー (和解させる、宥める)」は「取り替える、交換する、変える」から来ており、「敵意を好意に交換する」ことである。「痛み分け」ではない。
(†心のデボーション02308)
† 心のデボーション 02309
「然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり」 ロマ5:3~4 大正文語訳聖書
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達
は希望を生むということを」 新共同訳聖書
「忍耐を生み出す」
デパートで子どもが「ママのバカ」と繰り返し叫んでいる。欲しいものを買ってもらえなくてヒステリーを起こしたのである。子どもはものが欲しいのではなく、母親から「だめ」と拒絶されたことが悲しくて抗議しているのだろう。失敗や拒絶の意味を自分自身にうまく説明することができないため、自分という存在そのものが母親に拒絶されたと怒るのである。「ノー」という言葉に怯えるのは子どもだけではない。挫折や後退があっても、駄々をこねて座り込まないことである。
(†心のデボーション02309)
† 心のデボーション 02310
「其人己のヤコブに勝ざるを見てヤコブの髀の樞骨に觸しかばヤコブの髀の樞骨其人と角力する時挫離たり」 創世記32:25 明治元訳聖書
「ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた」 口語訳聖書
「ゆっくり急ぐ」
「Festina lente. ゆっくり急げ」は古典ギリシャ語「σπεύδε βραδέως」から来たとされる。英語では「Make haste slowly.」であるが出典は明らかではない。「良い結果を早く出したければ、ゆっくり急げ」の意味のようだ。「Festina lente.」を図案化したものが各種あり、それを集めるのも興味深い。それだけ、人生の重要な局面で使われた格言なのだろう。
ヤコブは帰還するにあたり兄エソウとの古い確執に悩んでいた。するとヤコブと夜明けまで格闘した御使いがヤコブのもものつがいを打ったのでヤコブはびっこをひいて歩くことになった。400人の私兵を率いて出迎えるエソウに、ヤコブはゆっくり歩いていき、エソウに近づくまでに7回も地に伏してお辞儀をしている。(創世記33~34章)これはいつものヤコブのやり方ではない。「ゆっくり急ぐ」ことで、ヤコブは兄エソウの怒りに満ちた思いを鎮めることが出来た。そのために神はヤコブに「もものつがいを打つ」という「痛み」を与えられたのかもしれない。
(†心のデボーション02310)
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