心のデボーション230

デボーション1
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† 心のデボーション 02291

「汝ら怒るとも罪を犯すな、憤恚を日の入るまで續くな。」 エペソ4:26 大正文語訳聖書

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」 新改訳聖書

 「隠された怒り」

不正やごまかしに腹を立てることだけが怒りではない。自覚されない怒りというものもある。なぜかその人と話をしているとイライラさせられるというのがそれである。その人には基本的に自分の存在が受け入れられていないという隠された怒りがあって、それが会話の中で一つの気分として現われてくるようだ。隠された怒りで他人を傷つけないためには自己の怒りを直視する必要がある。自分と和解することができれば消えてしまうものである。

(†心のデボーション02291)

† 心のデボーション 02292

「惡き證人は審判を嘲り 惡者の口は惡を呑む」 箴言19:28 明治元訳聖書

「ならず者の証人は裁きを嘲り/悪しき者の口は悪事を吞み込む。」 聖書協会共同訳聖書

 「悪しき者の口」

「悪しき者」は「神に逆らう者」(新共同訳聖書)の意味である。悪しき者の口は「悪事」を呑みこむ。むなしき事、不義など咀嚼もせずにひたすら呑みこむ。その口からは吞み込んだ「悪事」が生のままに出てくる。神を知る「知恵のことば」から迷い出てはならない。(箴言28:27) 

(†心のデボーション02292)

† 心のデボーション 02293

「なんぢら何を食ひ何を飮まんと求むな、また心を動かすな。」 ルカ12:29 大正文語訳聖書

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。」 新改訳聖書

 「気をもむ」

「気をもむ ζητέω  ゼーテオー」は「尋ね求める、捜し求める、追求する、探求する」の意味である。何を食べるか、何を飲もうか尋ね求め、追及するな。それらのことは「この世の(神を信じない)異邦人」が切に求める事柄である。これらのことは、必要とするものが何かをご存知である神に委ねよ。神が与えられるものをもって生きるのが信仰である。

(†心のデボーション02293)

† 心のデボーション 02294

「勤て汝の子等に敎へ家に坐する時も路を歩む時も寝る時も興る時もこれを語るべし」 申命記6:7 明治元訳聖書

「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」 新共同訳聖書

 「ライオンを飼いたい」

絵本を見ていた子どもが「家でライオンを飼いたい」といったら、たいていの母親は「何いってんの」と相手にしないだろう。ドイツの家庭なら、母親は世界地図を持ち出して、ライオンは何処にいるか、どうやって捕えてドイツに運ぶか、エサは何を食べるのか、その費用はどうするのか、ライオンが暴れたらだれが抑えるのか、など子どもに質問するそうである。子どもに「考えさせる」という「教え方」もある。

(†心のデボーション02294)

† 心のデボーション 02295

「なんぢ御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に勵め、寛容と教誨とを盡して責め、戒め、勸めよ」 Ⅱテモテ4:2 大正文語訳聖書

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」 口語訳聖書

 「寛容な心で」

御言葉を「あくまでも寛容な心でよく教えなさい」と勧められている。「あくまでも πᾶς パース」は「何であれ、あらんかぎりの、すべての」である。「あらん限りの寛容をつくして御言葉を伝えなさい」とパウロは若い伝道者テモテに語るのである。

(†心のデボーション02295)

† 心のデボーション 02296

「イエス言ひたまふ『「主なる汝の神を試むべからず」と、また録されたり』」 マタイ4:7 大正文語訳聖書

「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた」 新共同訳聖書

 「主を試みる」

イスラエルがレフィデムに宿営したとき、水がなく、人々は渇いてつぶやいた。モーセが杖でホレブの岩を打つと水が出た。その場所をマサ「試し」(又はメリバ「争い」)と名付けた。イスラエルは、「果たして主は我らの間におられるかどうか」とモーセと争い、主を試した。(出エジプト17:7)

「主を試みる」は「神に仕事をさせてみる」ことである。

「汝マツサにおいて試みしごとく汝の神ヱホバを試むるなかれ」 申命記6:16 明治元訳聖書

(†心のデボーション02296)

† 心のデボーション 02297

「わがうちに憂慮のみつる時 なんぢの安慰わがたましひを喜ばせたまふ」 詩篇94:19 明治元訳聖書

「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」 口語訳聖書

 「慰め」

愛して育てた犬や猫との死別の悲しみは、経験した者でないと分からない。死別した犬や猫の悲しみは、新しい猫や犬によってしか慰められないという。いのちはいのちによってしか慰められないのであろう。

(†心のデボーション02297)

† 心のデボーション 02298

「汝朝に種を播け 夕にも手を歇るなかれ 其はその實る者は此なるか彼なるか又は二者ともに美なるや汝これを知ざればなり」 伝道11:6 明治元訳聖書

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」 口語訳聖書

 「成し遂げよ」

「朝に種を蒔き始めたら、夕まで手を休めてはならない。一旦、ことを始めたら終わりまで成し遂げよ。一日の内にも何が起こるかだれも知らないからである」と伝道者は語る。(伝道11:2) 出来るうちに仕事をし、どの種が実かを考えずに種を蒔け。

(†心のデボーション02298)

† 心のデボーション 02299

「公平の權衡と天秤とはヱホバのものなり 嚢にある法馬もことごとく彼の造りしものなり」 箴言16:11 明治元訳聖書

「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの」 新共同訳聖書

 「ミカエルの秤」

大天使ミカエルは右手に剣を左手に秤をもって描かれる。ミカエルは最後の審判で魂の善悪をはかる役割があるのだという。玉川学園にある「聖母子と大天使ミカエルと聖人たち」(イタリア、シエナ派、1600年頃作)にはミカエルの秤の右の皿に聖母マリヤがそっと手を添えるのが描かれている。それによって魂の善と悪の秤は平衡を保つのである。

(†心のデボーション02299)

† 心のデボーション 02300

「われ詰朝おきいでて呼はれり われ聖言によりて望をいだけり」 詩篇119:147 明治文語訳聖書

「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。」 新改訳聖書

 「朝起き三文の徳」

「朝起き三文の徳」という。1文銭は現在の価格で20~30円くらいのもので、三文は100円くらいの「徳」があるとう意味になる。早起きしたからといって得られるのは三文くらいの徳だというのである。しかし、「朝起き三文の徳、長寝は三百の損」という言い方もあって、長寝をすすめるものでもない。「徳」の計算などしないで早起きすればよい。

(†心のデボーション02300)

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