† 心のデボーション 02271
「われ吉事を望みしに凶事きたり 光明を待しに黑暗きたれり」 ヨブ30:26 明治元訳聖書
「私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。」 新改訳聖書
「期して待つ」
人は光を待ち望む。しかし、時には望まない悪や暗やみが来る。なぜ人生に「望まない悪や暗やみ」が来るのか、その理由は簡単にはわからない。ただわかることは、神がそれを通じて私に近づこうとされていることである。
暗やみの中で、なおも期待して待つうちに、苦しみに変容がおこる。望まないことも、自分の人生の一部として受容することができれば、そこで神と出会うこともできる。
(†心のデボーション02271)
† 心のデボーション 02272
「請ふ再びせよ 不義あらしむる勿れ 請ふ再びせよ 此事においては我正義し」 ヨブ記6:29 明治元訳聖書
「どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」 新改訳聖書
「思い直してください」
ヨブは「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(ヨブ記4:7 新改訳聖書)と迫る友人に「どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。 Yield now, let there be no injustice!Yes, concede, my righteousness still stands!」(新改訳聖書 New King James Version)と懇願する。「思い直してくれ concede」は「相手に道をゆずって進ませる」の意味で、ヨブは友にも自分にも「不正があってはならない」からと言う。しかし、ヨブが本当に「思い直してください」と願わなければならなかったのは友よりも神に対してであった。
(†心のデボーション02272)
† 心のデボーション 02273
「汝わがあまた土の流離をかぞへたまへり なんぢの革嚢にわが涙をたくはへたまへ こは皆なんぢの冊にしるしあるにあらずや」 詩篇56:8 明治元訳聖書
「どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。」 新改訳聖書)
「涙の革袋」
「Hinc illae lacrimae. ここからあの涙」という言葉がローマの詩人テレンティウスの『アンドロスの女』にあるという。過去に流した涙の意味は目前の出来事を通して納得される。あの涙の本当の意味は、後になって分かるという意味か。悲しみの意味はあとからやってくる。詩人は流した涙を神が「革袋」にたくわえてくださるように祈る。後に神がその意味を。もっともよいときに教えてくださるようにと望む。
(†心のデボーション02273)
† 心のデボーション 02274
「產婆神を畏れたるによりて神かれらのために家を成たまへり」 出エジプト記1:21 明治元訳聖書
「助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。」 口語訳聖書
「一つの家」
神を恐れ、イスラエル人をひそかに助けた助産婦シフラとプアに神は「彼女たちの家を栄えさせ」られる。「家を栄えさせる」は直訳で「家を建てる」である。詩篇には「主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)とある。Ⅱサムエルには「主はあなたのために一つの家を造る」とある。(Ⅱサムエル7:11)
「一つの家」は家族に必要なものをまかなうことのできる「家」のことである。
(†心のデボーション02274)
† 心のデボーション 02275
「己の途の果を食ひおのれの策略に飽べし」 箴言1:31 明治元訳聖書
「それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう」 新改訳聖書
「神の安らぎ」
「愚かな者」は「自分の行いの実」を食べて満ち足り、「自分のたくらみ」に満足する。しかし、それが「自分を滅ぼす」(箴言1:32)ことを知らない。神の与える安らぎにこそ救いがある。(箴言1:33)
(†心のデボーション02275)
† 心のデボーション 02276
「汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ」 マタイ4:6 大正文語訳聖書
「あなたが神の子なら下に身を投げよ」 バルバロ訳聖書
「人間の弱さ」
「人間の本性というものは、奇跡を否定するようにはできていないのだ。いわんや、そのような生死に関する恐ろしい瞬間に、――最も恐ろしい、根本的な、苦しい精神的疑問の湧き起こった瞬間に、自由な心の決定にのみ頼っていくようにはできていないのだ」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
人間のその弱さは認めよう。しかし、老大審問官は「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり」(Ⅰコリント1:18 大正文語訳聖書)と告白する「愚かな人間」がいることを見落としている。
(†心のデボーション02276)
† 心のデボーション 02277
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「希望は失望に終わることはない」 口語訳聖書
「成功と失敗」
成功するかと思う時に決まって身を引く人もいる。本人が身を引くこともあるし、引かざるを得ないようなことによる場合もある。成功にもそれなりの備えが必要なのかもしれない。しかし、前もって成功に備える人が成功したことを聞かない。それよりも、「成功とは何か」を常に考えることが大切のようだ。それがわかると、成功や失敗へのこだわりもなくなる。
(†心のデボーション02277)
† 心のデボーション 02278
「婦女の最も美はしき者よ なんぢ若しらずば群の足跡にしたがひて出ゆき 牧羊者の天幕のかたはらにて汝の羔山羊を牧へ 」 雅歌1:8 明治元訳聖書
「女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」 口語訳聖書
「愛の表現」
「女の中の最も美しい人よ」といわれて心を動かさない女性がいるだろうか。女性はいつも言葉で愛を表現してほしい。そして男性は女性のなにげない表情に愛を感じる。ということは、男性は言葉で愛をごまかせるし、女性は心にもない表情で男性を誘うことができると知っておくことは、いくらかの意味あることであろう。もちろん、愛の表現を逆手にとって人を欺くのは最低の行為である。
(†心のデボーション02278)
† 心のデボーション 02279
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」 口語訳聖書
「赤面させない」
「失望 καταισχύνω」は「恥辱を与える、恥をかかせる」の意味である。「信仰の希望」は抱く者に恥をかかせ、赤面させることがない。「信仰の希望」は神の愛から出ているからである。
(†心のデボーション02279)
† 心のデボーション 02280
「我は神の賜ひたる恩惠に隨ひて、熟錬なる建築師のごとく基を据ゑたり、而して他の人その上に建つるなり。然れど如何にして建つべきか、おのおの心して爲すべし、」 Ⅰコリント3:10 大正文語訳聖書
「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。」 口語訳聖書
「顎振り三年」
尺八は「顎振り三年」といわれる。「顎を振る」のも三年はかかるのだそうである。熟練した芸や業には、何年もの経験がいる。難しいことほど、極めたときの喜びは深い。熟練は一つ所に留まることがない。さらなる「顎振り」が現れるからである。信仰にも「熟練の技」というものがある。これは「顎振り三年」くらいではおさまりようがない。
(†心のデボーション02280)
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