心のデボーション227

デボーション1
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† 心のデボーション 02261

「弟、父に言ふ「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたへよ」父その身代を二人に分けあたふ。」 ルカ15:12 大正文語訳聖書

「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」 口語訳聖書

 「みじめさ」

弟息子が遠国で失敗することは十分に予想できた。しかし、この父親は黙って弟息子を旅に出している。子どもにはみじめな失敗をさせたくないというのが親心であろう。しかし、惨めさから立ち直ったことのない子どもは、失敗しそうになると身を引くようになり、それでいて奇妙な全能感を持つようになる。手を出したくなるのをおさえ、失敗から立ち直ってくるのをじっと待つことができないのは、親にみじめさから立ち直った経験がないからかもしれない。

(†心のデボーション02261)

† 心のデボーション 02262

「マリヤ言ふ、 『わがこころ主をあがめ、』」 ルカ1:46 大正文語訳聖書

「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」 聖書協会共同訳聖書

 「神を喜びたたえる」

マリヤは聖霊によって男の子を身籠り、御使いガブリエルから「聖なる者。神の子」であることを告知され、「マ

リヤの賛歌を歌う。(ルカ1:46~55)その冒頭に「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。καὶ εἶπεν μαριάμ, μεγαλύνει ἡ ψυχή μου τὸν κύριον,」がある。「私の霊 ἡ ψυχή μου」は「私の魂」とも訳される。「神を喜びたたえる μεγαλύνω メガルノー」は「偉大なものにする、大きくする、長くする」の意味である。マリヤは自分の魂の中に「救い主である神」の存在が大きく長く広がっていくのを賛美しているのである。

(†心のデボーション02262)

† 心のデボーション 02263

「これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん」 詩篇118:24 明治元訳聖書

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」 新改訳聖書

 「人間の核」

コス島の画家アペレスは「Nulla dies sine linea. 一本の線を描かない日は一日もない」と言ったという。気が向こうが向くまいが、筆を持たない日はないのが真の画家であろう。そのようにして人間の核ができる。

(†心のデボーション02263)

† 心のデボーション 02264

「しかしてなんぢ謹愼を守り汝の口唇に知識を保つべし」 箴言5:2  明治元訳聖書

「これは、お前が思慮を持ち続け、お前の唇が知恵を保つためである」 フランシスコ会訳聖書

 「おしゃべり」

語る前に、耳を傾けよと箴言は教える。しかし、語ろうとすることが何もない時にこそ語らねばならないことがある。互いに語りたいことがたくさんある時には、耳を傾けるべきだと思う。耳を傾けていても、自分が「聞きたいことば」だけをひろっているというのは、結局、何も聞いていないからである。語ろうとするものが何もないところから語り出されるものが、何かをはじめさせてくれるのではないか。耳を傾けたいのは、その「英知」である。

(†心のデボーション02264)

† 心のデボーション 02265

「此の事をあらはに語り給ふ。ここにペテロ、イエスを傍にひきて戒め出でたれば、」 マルコ8:32 大正文語訳聖書

「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。」 聖書協会共同訳聖書

 「あからさまなことば」

「はっきりと παρρησίᾳ」は「大胆に、あからささまに」の意味で、言いたいことを自由に大胆にすべて語り尽くすことである。イエスが十字架と復活について「あからさまに παρρησίᾳ」語られると、ペテロはイエスをわきにお連れして諫め始めた。(マルコ9:31~33) イエスが「あからさまに」語られる事柄は一言も漏らさずに聞かなればならない。私達はときどき、ペテロのように「そのようなことは語るべきではありません」と諫め始めるのである。

(†心のデボーション02265)

† 心のデボーション 02266

「『汝もし神の子ならば己が身を下に投げよ。それは 「なんぢの爲に御使たちに命じ給はん。 彼ら手にて汝を支へ、その足を 石にうち當つること無からしめん」 と録されたるなり』」 マタイ4:6 大正文語訳聖書

「言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える」/と書いてある。』」 新共同訳聖書

 「鈴の鳴る道」

高見澤潤子さんに星野富弘さんの「鈴の鳴る道」についての文章がある。

友人からきれいな銀色の鈴をもらったが、手を動かせない富弘さんは電動車椅子にぶらさげ、鈴の音を聞きながら、外の景色や草花の風景を楽しもうとした。しかし、電動車椅子がでこぼこ道にさしかかると、車椅子が大きく揺れ、脳までひびく振動が来る。なるべくでこぼこ道を通らないようにしていたが、その日はでこぼこ道に入ってしまった。慎重に車椅子を導いたが、車椅子は大きく揺れた。それで「鈴」も揺れて、チリンと鳴った。それは「心にしみる澄んだ音色」だった。富弘さんは「もう一度、その音をききたくて、引き返して、でこぼこ道にのってみた。富弘さんは後に「整えられた道を歩いていたのでは鳴ることがなく、でこぼこ道にさしかかった時、ゆれて鳴る鈴がある。私の行先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う」と書いている。(高見澤潤子 『九十三歳の伝言』)

星野富弘さんは、このとき御使いの手で抱き上げられてでこぼこ道を通過したのであろう。でこぼこ道でなければ聞けない「鈴の音」もある。しかし、行く先にでこぼこ道があって、それを避けて迂回してもよい。御使いは迂回した平地でなければ聞けない鈴の音も聞かせてくれるような気がする。

(†心のデボーション02266)

† 心のデボーション 02267

「わが子よ我が言をきけ 我が語るところに汝の耳を傾けよ」 箴言4:20 明治元訳聖書

「子よ、私の言葉に思いを向けよ。/私の語りかけに耳を傾けよ。」 聖書協会共同訳聖書

 「思いを濃くする」

山崎いづみさんは「自分の現実は、自分自身が作り出している。だから、あなたがどうしたいのかについて、思いを濃くする必要があるのです。」と書いている。(山崎いづみ『幸せのコトノハ』より) 「思いを濃くする」は「思い詰める」ではなく、「思いを探る、思いに入る」ことだろうか。思いは煮詰めようとしても濃くはならないようだ。私は思いを自由に遊ばせるようにしている。時には遊びすぎて思いが疲れてしまうこともしばしばである。なかなか、思うように濃くならない。それらを含めて、自分の現実は、神の憐れみの中に作り出されているようにも思える。箴言の「思いを向けよ קשׁב」は「耳を傾けよ、心を傾けよ」の意味である。神のことばに傾注することが「思いを濃く」する。

(†心のデボーション02267)

† 心のデボーション 02268

「智慧の秘密をなんぢに示してその知識の相倍するを顯したまはんことを 汝しれ神はなんぢの罪よりも輕くなんぢを處置したまふなり」 ヨブ11:6 明治元訳聖書

「知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。」 口語訳聖書

 「思いを消す」

誰にも忘れたくても忘れられないつらい出来事がある。思い出すことを止めることもできない。しかし、思い出すたびに、その思いを消すことはできる。何千回でも、ただ、ひたすらに消す。神は人の罪ですら忘れて下さるというのに、人はそれを忘れられない。忘れられないからこそ人なのかもしれない。忘れるのではなく、思いを消す。つらい思いがあっても平気でいられるほど強くなくてもいいと思う。

(†心のデボーション02268)

† 心のデボーション 02269

「我はこの一切の事に心を用ひてこの一切の事を明めんとせり 即ち義き者と賢き者およびかれらの爲ところは神の手にあるなるを明めんとせり 愛むや惡むやは人これを知ることなし一切の事はその前にあるなり」 伝道9:1 明治元訳聖書

「というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。」 新改訳聖書

 「愛であるか、憎しみであるか」

もし、目の前にあるものが「愛であるか、憎しみであるか」わからないなら、「愛である」と信じたらよいではないか? 「愛である」と信じて裏切られたとしても、「憎しみである」と信じて、後で愛であったと知るほうが、よほど辛い。

(†心のデボーション02269)

† 心のデボーション 02270

「われ愚なるによりてわが傷あしき臭をはなちて腐れただれたり」 詩篇38:5 明治元訳聖書

「私の傷は、愚かな行いのために/膿んで悪臭を放ちました。」 詩篇38:6 聖書協会共同訳聖書

 「悪臭」

昔の人は「明けて通せよ、肥(こえ)担ぎ(かたぎ)」と言った。悪臭を振りまくような人には近づくなという意味か。「肥え」の悪臭を身近に知る人にはよくわかる言葉である。だが、イエスはそれにまさる悪臭を振りまく私を退けはなさらなかった。

(†心のデボーション02270)

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