† 心のデボーション 02251
「身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん」 マタイ6:22 大正文語訳聖書
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが」 新改訳聖書
「気配り」
上司に「お疲れさまでした」といったら「俺は疲れてなどいない」と返されて、ひどく心を傷つけられた人がいる。この上司は、成績の上がらない部下に「お前のおかげでよけいな仕事をさせられる」という思いがあり、その部下から「お疲れさま」といわれて腹を立てたのであろう。自分に向けられた反応をじっくり観察する、その光の中でしか自分の「全身」は見えないのかもしれない。
(†心のデボーション02251)
† 心のデボーション 02252
「我了れるところは唯是のみ 即ち神は人を正直者に造りたまひしに人衆多の計略を案出せしなり」 伝道7:29 明治元訳聖書
「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」 新共同訳聖書
「コンプレックス」
日本で「コンプレックスを抱く」と言えば、「劣等感」と受け取られるがあるが、本来、「コンプレックス complex」の語源はラテン語com-plectereで「包含する」から来ている。「com 共に + plex 折り込む」で「複雑な、入り組んだ」という意味である。心理学的にはさまざまな感情の複合体を意味する。(劣等感 Inferiority complexは complexの一種である) 純粋な心を持つと思える人も、無意識には複雑な「コンプレックス」を抱いていると考えてよい。単純と見える人ほど複雑であるかもしれない。
(†心のデボーション02252)
† 心のデボーション 02253
「サラ言けるは神我を笑はしめたまふ聞く者皆我とともに笑はん」 創世記21:6 明治元訳聖書
「サラは言った。『神は私を笑わせてくださいました。このことを聞く人は皆、私を笑うでしょう。』」 聖書協会共同訳聖書
「今万物が笑っている」
ウェルギリウスの『牧歌』に、「Nunc omnia rident. 今万物が笑っている」ということばがあるという。生命力に溢れた自然が笑うがごとく明るく感じられるとき、人の心は深い慰めに満たされる。サラは男の子を生み、その名を「イサク 笑い」と名づけ、「神は私を笑われました」と言う。(創世記21:1~7) 心に喜びがあるとき、「万物が笑っている」と感じる。神も祝福して笑われるのを感じる。
(†心のデボーション02253)
† 心のデボーション 02254
「わがたましひは渇けるごとくに神をしたふ 活神をぞしたふ 何れのときにか我ゆきて神のみまへにいでん」 詩篇42:2 明治元訳聖書
「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」 新改訳聖書
「求めて渇く」
動物園のライオンを長生きさせるために、ときどき、寝そべっているライオンをわざと自動車で轢こうとしてやるのだそうである。もちろんライオンは驚いて飛びのく。生きるには適度なストレスが必要なのである。 エサの心配もなく寝そべっていられるライオンよりも、渇き飢えて歩き回るライオンになりたいと思う。渇いて歩きまわることを通して、魂は神をほめたたえることを学ぶのである
(†心のデボーション02254)
† 心のデボーション 02255
「困苦にあひたりしは我によきことなり 此によりて我なんぢの律法をまなびえたり」 詩篇119:71 明治元訳聖書
「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。/あなたの掟を学ぶためでした。」 聖書協会共同訳聖書
「へりくだる者」
「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」と告白できる人は幸いである。人は断じて頭を下げることを拒絶する山羊のように、苦しみにあっても謙虚に頭をさげようとはしないからだ。へりくだる者のみが学ぶことができる。彼は苦しみからも「神の掟」を学ぶのである。
(†心のデボーション02255)
† 心のデボーション 02256
「ここに惡魔イエスを聖なる都につれゆき、宮の頂上に立たせて言ふ」 マタイ4:5 大正文語訳聖書
「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」 新共同訳聖書
「頂上」
「頂上」は誘惑の一つの場である。長くとどまるべき所ではない。高嶺は登るよりも降るほうが危険に満ちている。
(†心のデボーション02256)
† 心のデボーション 02257
「かくて己のために善き基を蓄へ、未來の備をなして眞の生命を捉ふることを爲よと。」 Ⅰテモテ6:19 大正文語訳聖書
「こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。 」 口語訳聖書
「未来に備えよ」
未来に希望を持つことが出来る人は生き生きしている。だが、それは未来を約束された人という意味ではない。未来への希望はその人の心にあるものだからである。「過去、現在、未来」は、まず、人の心の中に存在し、時の流れの中の「過去、現在、未来」と深く関わりながら進むようだ。二つの世界は互いを必要としており、互いを無視しては成り立たないのではないだろうか?
(†心のデボーション02257)
† 心のデボーション 02258
「弟子はその師にまさらず、僕はその主にまさらず」 マタイ10:24 大正文語訳聖書
「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」 フランシスコ会訳聖書
「写瓶」
「写瓶」ということばがある。瓶の中の水を、そっくり、もう一つの瓶に移しかえるように、師の業を学ぶことだそうである。その際いいところだけではなく、悪いところも、そっくり移しとるのがポイントである。その後に、自分の業と思えるものが出てくる。しかし、一滴も残さずに移したと思って、瓶をのぞくと、まだ底に水があるのが「師の瓶」であろう。これを覗き見るのは、いがいと楽しいかもしれない。
(†心のデボーション02258)
† 心のデボーション 02259
「われとともにヱホバを崇めよ われらともにその名をあげたたへん」 詩篇34:3 明治元訳聖書
「わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。」 口語訳聖書詩篇
「共に主を崇める」
ダビデは「わたしと共に(「ひとつになって」新共同訳聖書)神をあがめよう」と呼びかける。神を崇めるために「ひとつになれる相手」がいることは、一人で神を崇めるよりもずっと素晴らしい。「わたしと共に主をあがめる人」は神がわたしに遣わされたのである。
(†心のデボーション02259)
† 心のデボーション 02260
「これは執る者には生命の樹なり これ持ものは福なり」 箴言3:18 明治元訳聖書
「知恵はこれを握る者には命の木である。これを固くつかむものは幸いである」 フランシスコ会訳聖書
「開けて悔しき玉手箱」
「開けて悔しき玉手箱」ということがある。期待して開けてみると、予想外のものが出てきて失望するという意味である。乙姫は「決して開けてはいけない」と言ったではないか。では、何のために乙姫は「飽けてはならない玉手箱」を渡したのだろうか? もし、浦島が約束を守って玉手箱を開けなかったら、幸せになれたのだろうか? いずれにしても、人は何時かは開けなければならない「玉手箱」を乙姫から渡されているようだ。乙姫というのはそういう役割を担った人物である。
(†心のデボーション02260)
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