心のデボーション225

デボーション1
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† 心のデボーション 02241

「ここにユテコといふ若者窓に倚りて坐しゐたるが、甚く眠氣ざすほどに、パウロの語ること愈々久しくなりたれば、遂に熟睡して三階より落つ。これを扶け起したるに、はや死にたり。」 使徒20:9 大正文語訳聖書

「ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。」 口語訳聖書

 「名人芸」

ある作詩家は、名人といわれるはなし家の語り口はあまりに自然で聞くとかならず眠くなるという。はなし家にとって、眠くなるというのは最高のほめことばで、へたな落語は居心地が悪く、イライラして眠れるどころではないというのである。しかし、「先生の説教は必ず眠くなる。名人芸ですなぁ」と言われても私はよろこぶ気になれない。へたな説教にイライラもせず眠れる方がよほど名人芸だと言うべきか。説教の最中に居眠りされても気にする必要はない。説教の最中に眠りこけて窓から転落して死んだ青年ユテコをパウロは優しく生き返らせている。

(†心のデボーション02241)

† 心のデボーション 02242

「我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。」 ロマ1:16 大正文語訳聖書

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」 口語訳聖書

 「福音を恥じとせず」

パウロは「わたしは福音を恥としない οὐ γὰρ ἐπαισχύνομαι τὸ εὐαγγέλιον」と言う。Today’s English Versionは「I have complete confidence in the gospel;」と訳す。Complete は「完全に満たす」で「確信に完全に満たされている」ことをあらわず。「福音を恥としない」は、福音に対する一分の不安もない強い確信である。

(†心のデボーション02242)

† 心のデボーション 02243

「われ墓にくだらばわが血なにの益あらん 塵はなんぢを讃たたへんや なんぢの眞理をのべつたへんや」 詩篇30:9 明治元訳聖書

「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。」 口語訳聖書

 「メメントモリ」

「メメントモリ Memento mori.  (自分の)死を忘れることなかれ」は、人の死ではなく、自分が「死ぬべき存在」であることを忘れるなという戒めである。ラテン語 morior には「死ぬこと」に加えて「満期になる、終了する」の意味もある。息を引き取ることは「いのちが満期を迎える」ことである。「メメントモリ」は、一つ一つの経験に満期のあることを教える励ましの言葉でもある。

詩篇の作者は恩寵のうちに山に立ち、御顔を隠された神を呼び求める。もはや求めることをしない沈黙(死)の魂であるよりも、夕には束の間の神の怒りに涙しても、朝には喜びの叫びがあると信じて神を賛美する魂に生きようとする。(詩篇30:4~6)

(†心のデボーション02243)

† 心のデボーション 02244

「ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ並なんぢの霊魂をまもりたまはん」 詩篇121:7 明治元訳聖書

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」 新改訳聖書

 「書痙」

緊張すると手がふるえて、字が書けなくなることを書痙という。書こうとして焦れば焦るほど、手がふるえて書けなくなる。私は自分でも何を書いたのか読めないことがあるほどの悪筆であるが、書痙にはなっていない。実は、書痙になる人は字の上手な人なのである。字が上手だという意識が書痙を誘うのかもしれない。手が震えるなら、震えるままに字を書いてみるのはどうだろうか。

(†心のデボーション02244)

† 心のデボーション 02245

「神はわが足を麀のあしのごとくし我をわが高處にたたせたまふ」 詩篇18:33 明治元訳聖書

「神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、」 口語訳聖書

 「雌鹿の足」

カナダのロッキーに行くと、高い岩山にMoutain Goats(山脈産の野生のやぎ)が立つのが見られる。高い岩山の立つことの難しい狭い足場に身じろぎもせずに立つ。詩篇の作者は神が「自分の足を岩場に立つ鹿のようにされて、わたしは高い所に安全に立たせてくださる」と歌う。普通ではかなわぬ聖なる高い所に立つことのできるのは自分の生来の足ではなく、神が恵みによって私の足を岩場に立つ雌鹿の足のようにされたからであると神を賛美する。神はへりくだる者の足を、聖なる高き所に立つ「雌鹿の足」のごとくにされるのである。

(†心のデボーション02245)

† 心のデボーション 02246

「ここに惡魔イエスを聖なる都につれゆき、宮の頂上に立たせて言ふ」 マタイ4:5 大正文語訳聖書

「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」 新共同訳聖書

 「高さへの恐怖」

タワー・マンションに住む人の約半数は高層階を希望するという。「眺望」のよさは人を魅了する。しかし、地面を意識すると、下に落ちるような不安感を感じるかも知れない。

グランドキャニオンのスカイウォークは高さ1200メートルの絶壁から空中にせり出した回廊のような歩道で、床はガラス張りになっている。観光客は身のすくむような恐怖感を25ドル払って体験する仕組みである。

人間が「高さ」への危険を感じるのは正常な反応である。サタンがイエスを「神殿の最も高い所」に立たせたのは、イエスの「高さ」に対する思いを試みる目的もあったろう。

人間は「高さ」に恐怖を感じない方が病的と考えられている。

サタンは「明けの明星」と呼ばれる。(イザヤ14:12)

イザヤ14:12~15 明治元訳聖書

あしたの子明星よいかにして天より隕しや もろもろの國をたふしし者よいかにして斫れて地にたふれしや 汝さきに心中におもへらく われ天にのぼり我くらゐを神の星のうへにあげ北の極なる集會の山にざし たかき雲漢(くもゐ)にのぼり至上者(いとたかきもの)のごとくなるべしと  然どなんぢは陰府におとされ坑の最下にいれられん。

サタンの罪は自己を高め「至上者(いとたかきもの)のごとくなる」ことであった。

「自己」より自分を高くしてはいけない。「自己」より自分を低くしてもいけない。それはともに「罪」である。

(†心のデボーション02246)

† 心のデボーション 02247

「我を強くし給ふ者によりて、凡ての事をなし得るなり。」 ピリピ4:13 大正文語訳聖書

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 口語訳聖書

 「力で満たされ」

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。πάντα ἰσχύω ἐν τῶ ἐνδυναμοῦντί με」。「強くしてくださる ἐνδυναμοῦντί」は「ἐν の中に + δύναμις 力」で、「δύναμις 力で満たす」の意味である。

神はその御力の中にわたしを置かれ、御力に満たされる。それによって、「わたしは御旨のために何事でもできる」のである。

(†心のデボーション02247)

† 心のデボーション 02248

「茲に只一の日あるべしヱホバこれを知たまふ是は晝にもあらず夜にもあらず夕暮の頃に明くなるべし 」 ゼカリヤ14:7 明治元訳聖書

「これはただ一つの日であって、これは【主】に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。」 新改訳聖書

 「夕暮れ時の光」

ゼカリヤ14:7に、主の日には「夕暮れ時に光がある」とある。老いとは、この光に向かっていくいのちだろうか? 

「夕暮れ時」にしなければならないのは、昼の間に受け入れることのできなかったものを受け入れることである。受け入れがたいものの一つを受け入れるごとに、光はその存在をあらわす。夕暮れ時の楽しみは、薄明かりの光の中で本当の自分が照らし出されてくるのを待つことにあるのではないだろうか。

(†心のデボーション02248)

† 心のデボーション 02249

「ヱホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ」 詩篇23:3 明治元訳聖書

「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 口語訳聖書

 「確固たる目的」

モンテーニュは「確固たる目的をもたない精神は自分を失う。なぜなら、よく言われるように、どこにでもいるということはどこにもいないということだから。」と書いている。(モンテーニュ『エセー』)

「確固たる目的を持つ」ということは、「どこにでもいる」ことはできない。とすれば、「確固たる目的」は、それを定める前に(定めた後も)、よくよく確認しなければならないということだ。詩篇の作者が求めるのは「魂を生き返らせる道」である。

(†心のデボーション02249)

† 心のデボーション 02250

「しばらく臥ししばらく睡り 手を叉きてまた片時やすむ」 箴言6:10    明治元訳聖書 

「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」 口語訳聖書

 「安坐(あぐら)で川」

ことわざに「安坐(あぐら)で川」という。胡坐をかいたまま川を渡るように、さして苦労しもしないで物事が都合よく進むことをいう。しかし、胡坐をかいたままで川は渡れないように、何の苦労もなしにことが上手くいくことはめったにはおこらない。川があれば尻からげして渡れそうな浅瀬をさがして渡るべきだ。

(†心のデボーション02250)

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