心のデボーション224

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† 心のデボーション 02231

「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」 新改訳聖書

 「燃えつくす炎」

「ねたみは愛だろうか、それとも愛の否定だろうか。ギリシャ語で「ねたむ」は「ζηλόω」で「(妬みで)燃え上がる、熱心に求める」の意味である。「心が沸く」「焼きつくす激しい炎」を意味する。情熱という意味では、ねたみは愛の表現であるが、相手を食いつくす意味では愛の否定である。やっかいなのは、ねたみは心の深くにあって、それと意識されない「激情」だということであろう。ねたみは愛への不信から発生する。ねたみの問題を解決するのも、やはり、愛である。

(†心のデボーション02231)

† 心のデボーション 02232

「なんぢ我をいつくしむ者とわが友とをとほざけ わが相識るものを幽暗にいれたまへり」 詩篇88:18 明治元訳聖書

「あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。」 口語訳聖書

 「仲間」

詩篇の作者は、神が「愛する者と友」を自分から遠ざけられたのは、神が自分の魂を拒まれているからだと言う。(詩篇88:14) 「友、仲間 companion」は「一緒にパンを食べる」から来ている。神から離れた魂は一緒に一つのパンを食べる仲間を遠ざけるのである。

(†心のデボーション02232)

† 心のデボーション 02233

「明哲はこれを持つものに生命の泉となる 愚なる者をいましむる者はおのれの痴是なり」 箴言16:22 明治元訳聖書

「知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。」 口語訳聖書

 「おおいなる知恵」

ラテン語格言に「Fortuna adversa virum magnae sapientiae non terret. 大いなる(知恵ある)者は逆境に脅かされず」とある。(出所不明)「逆境 Fortuna adversa」は「adversa 反対の Fortuna 運命」である。人生は、しばしば、望むと反対の運命に人を導く。しかし、「大いなる知恵」があれば、少しも脅かされることはない。

(†心のデボーション02233)

† 心のデボーション 02234

「何の故か、かれらは信仰によらず、行爲によりて追ひ求めたる故なり。彼らは躓く石に躓きたり。」 ロマ9:32 大正文語訳聖書

「なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。」 口語訳聖書

 「つまずきの石」

「つまずきの石 τῷ λίθῳ τοῦ προσκόμματος」と呼ばれる石がある。建築に用いられるほどの大きな石である。どうして、人がそんなに大きな石につまずくのか不思議である。しかし、実際には、つまずく人にとって「石」の大きい小さいは関係がない。もし、自分が「つまずきの石」の役割を果たしたとしても、自分を責めないことだ。問題は、「つまずきの石」にではなく、つまずく「その人」にあるからである。

(†心のデボーション02234)

† 心のデボーション 02235

「われら喜び樂しみて之に榮光を歸し奉らん。そは羔羊の婚姻の時いたり、既にその新婦みづから準備したればなり。」 黙示19:7  大正文語訳聖書

「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。」 口語訳聖書

 「喜び楽しみ」

喜び楽しみつつ神を崇めよ。「喜び楽しみ χαίρωμεν καὶ ἀγαλλιῶμεν」は「狂気するがごとくに楽しみ」の意味である。神を崇める者は「うち沈む者」ではない。喜び楽しむことを知る者である。

(†心のデボーション02235)

† 心のデボーション 02236

「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」 マタイ4:4 大正文語訳聖書

「イエスは答えて、『「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と書き記されている』と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書

 「神の口から出る」

「神の口から出る」は、神の口から「ことば」が出て、目的地に向かって旅をすること。イザヤ55:11「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」 イザヤ55:11 新共同訳聖書

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊がくる

とき」 ヨハネ15:26 新共同訳聖書

「御霊」は神から人に遣わされ「 ἐκπορεύομαι  エクポレウオマイ(目的に向かって旅する、派遣される)」。

(†心のデボーション02236)

† 心のデボーション 02237

「然れど哀なる者を慰むる神は、テトスの來るによりて我らを慰め給へり」 Ⅱコリント7:6 大正文語訳聖書

「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」 新共同訳聖書

 「メランコリー」

「メランコリー melancholy 憂鬱」は「過去に圧倒される病」で、「未来の喪失に悩む」という。(島崎敏樹『現代人の心』) メランコリーは過去、現在、未来の時間軸がなければ成立しないところから、高度な精神活動を営む人間ならではのか悩みである。古くからメランコリーは「聖なる狂気(アニマ)」の出現をうながすものとして芸術、創造活動の根源的エネルギーと考えられた。「メランコリー」が生み出すものは憂鬱だけではない。

(†心のデボーション02237)

† 心のデボーション 02238

「されど汝等我をここに賣しをもて憂ふるなかれ身を恨るなかれ神生命をすくはしめんとて我を汝等の前につかはしたまへるなり」 創世45:5  明治元訳聖書 

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」 口語訳聖書

 「神の定め」 

現実を直視すれば、人生には憎しみも、戦いもある。それを避けたり、ごまかしたりしていては何も解決しない。

ヨセフはたくさんの不運に見舞われる。しかし、不運の中に「神の定め」を見ている。エジプトで兄たちと再会したヨセフは、兄たちを恨むことも裁くこともしない。ただ「神があなたがたより先に自分を遣わしてくださったのだ」と語る。ヨセフにとって不運は幸いですらあったのである。

(†心のデボーション02238)

† 心のデボーション 02239

「その兄弟を愛する者は、光に居りて顛躓その衷になし」 1ヨハネ2:10 大正文語訳聖書   

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません」 新改訳聖書

 「悪縁の契り」

「悪縁、契り深し」という。悪しき仲間の結びつきは強く、容易には離れられない意味である。「悪縁」は意外と深い情愛によって結ばれる側面があるためであろう。しかし、悪縁とはいえ、契りを断つには相応の覚悟がいる。どうすれば、より深い情愛を見出すことが出来るだろうか。

(†心のデボーション02239)

† 心のデボーション 02240

「多の友をまうくる人は遂にその身を亡す 但し兄弟よりもたのもしき知己もまたあり」 箴言18:24 明治元訳聖書

「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」 口語訳聖書

 「頼もしい友」

ことわざに「悪人の友を捨てて、善人の敵(かたき)を招け。」という。悪人は、いくら頼りになっても自分のためにはならない。たとえ、自分を憎むひとでも善人なら捨ててはならない。彼は「兄弟よりもたのもしい」かもしれない。

(†心のデボーション02240)

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