† 心のデボーション 02221
「我らは此のキリストを傳へ、知慧を盡して凡ての人を訓戒し、凡ての人を教ふ。これ凡ての人をしてキリストに在り、全くなりて神の前に立つことを得しめん爲なり。」 コロサイ1:28 大正文語訳聖書
「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。」 口語訳聖書
「百キロの砂漠」
ベドウィンの少年は十二歳になると百キロの砂漠を一人で旅しなければならない。砂漠を旅するには、水がどこにあり、自分が今どこにいるのかを知る必要がある。砂漠を旅する知恵を持つこと、それが少年から大人になるための条件である。キリスト者は、心の中にある百キロの砂漠を一人で旅することができなければ「キリストにある成人」とは言えないかもしれない。必要なのは、水がどこにあり、自分が今どこにいるかを正確に知る知恵である。
(†心のデボーション02221)
† 心のデボーション 02222
「信じたる者の群は、おなじ心おなじ思となり、誰一人その所有を己が者と謂はず、凡ての物を共にせり。」 使徒4:32 大正文語訳聖書
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」 聖書協会共同訳聖書
「深いコミュニケーション」
「コミュニケーション communication」の語源はラテン語「communis 共有、共通」から来ている。コミュニケーション能力とは「共有、共通の認識に立って互いの認識を変える力」のことである。相手にいかに伝えるかは、相手からの情報をいかに受け取るかにかかっている。
使徒4:32の「共有 κοινός」には「共有の、共通の、分かちあう、共に与る」の意味がある。初代教会は信徒が持ち物を持ち寄って、すべてを共有にしていた。彼らは互いに深いコミュニケーションをはかっていたのである。
(†心のデボーション02222)
† 心のデボーション 02223
「わが到るまで、讀むこと勸むること教ふる事に心を用ひよ」 Ⅰテモテ4:13 大正文語訳聖書
「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」 口語訳聖書
「学び」
セネカの言葉に「Homines dum docent discunt. 人は教える間、学ぶ」とある。他人に教えるために、まず、自らが学ばなければならない。自ら学んだことばは人を動かす。
旧約聖書外典ベン=シラの知恵の序に次のようにある。
「ところで、それらを読む者は、自分自身が理解して賢くなるだけでは十分と言えない。学問を大切にする者は、また、自らも語ったり書いたりして、一般の人々の役に立ちうる人でなければならない。」(ベン=シラの知恵序4~6節 新共同訳聖書)
(†心のデボーション02223)
† 心のデボーション 02224
「愛は寛容にして慈悲あり」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書
「愛は寛容であり、愛は親切です」 新改訳聖書
「愛の喜び」
人がつらくあたるのは自分が寛容を示さないからかもしれない。愛されないのは、自分が愛そうとしていないからかもしれない。人は愛を求めて旅をする。しかし、愛は遠くに捜し求めるべきものではない。愛は外にではなく、内にある。人は愛することによって、愛に出会う。愛されることよりも、愛せないことの方がはるかに苦しい。愛されないことを嘆くよりも、愛することのできた自分を喜ぶべきである。
(†心のデボーション02224)
† 心のデボーション 02225
「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』」 黙示1:8 大正文語訳聖書
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである。』」 聖書協会共同訳聖書
「完結」
神は「アルパ はじめ」であり、「オメガ 終わり」である。人は自ら「終わり」を告げてはならない。事の終りを告げるのは神である。神が終わりを告げられたら、人はそれを未完とせず、完結と認めなければならない。「オメガ 終わり」は「アルパ 始め」の完結である。
(†心のデボーション02225)
† 心のデボーション 02226
「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」 マタイ4:4 大正文語訳聖書
「イエスは答えて、『「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と書き記されている』と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書
「一つ一つの言葉」
「一つ一つの言葉」マタイ4:4 新共同訳 はギリシャ語「πᾶς パース」で「すべて、どれでも」である。神の口からでることばは、すべて(例外なく)聞かなければならない。「あの言葉」を聞き、「この言葉」に耳を閉ざすような聞き方をすべきではない。
(†心のデボーション02226)
† 心のデボーション 02227
「さらば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや」 マタイ7:11 大正文語訳聖書
「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良い物を与えることを知っている。天におられるあなたがたの父が、自分に求める者に、良い物をくださらないことがあるだろうか」 フランシスコ会訳聖書
「神のギフト」
「良いもの ἀγαθός アガとス」は「善きもの、人を幸せにするもの」を指し、「才能、賜物」も「ἀγαθός アガとス」である。「良いもの ἀγαθός アガとス」は神からのギフトである。
(†心のデボーション02227)
† 心のデボーション 02228
「わがたましひは默してただ神をまつ わがすくひは神よりいづるなり」 詩篇62:1 明治元訳聖書
「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。」 口語訳聖書
「裏目」
自分の気持ちが相手にうまく伝わらない時がある。理解されようと焦れば焦るほど裏目に出てしまうのです。それは、相手が理解しないのではなく、相手の理解が求めるものと違っているのであなたが納得できないのではないでしょうか。沈黙して、ただ神に向かうとき納得できない「相手の理解」に聴く事もできます。相手の理解に誤解が含まれていても、それを引き出しているのは自分かもしれないのです。「裏目」には、とても大切な意味が含まれているものです。
(†心のデボーション02228)
† 心のデボーション 02229
「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書
「道案内」
「導く ἀνάγω アナゴー」は「連れて行く、運び上げる」の意味だが、詳訳聖書は<道案内された>と、この語の意味を補う。
聖霊は悪魔の試みを受けられるために、イエスを荒野に「道案内」した。「道案内」がなければ「試み」にたどり着けず、またそこから脱出することもできない。
「試み」は避けたいが、聖霊の「道案内」なら是非もない。しかし、「道案内」が聖霊か悪霊かで経験は異なる。
(†心のデボーション02229)
† 心のデボーション 02230
「われ人にもちゐる索すなはち愛のつなをもて彼等をひけり」 ホセア11:4 明治元訳聖書
「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」 新改訳聖書
「愛のきすな」
ホセア書11:4の「人間の綱」は「人を結ぶ綱 בּחַבְלֵי אָדָם」で「痛み、苦痛、悲しみ」の意味であり、人は「痛み、苦痛、悲しみ」につながれており、「痛み、苦痛、悲しみ」によって人は人と結ばれるのである。そして「痛み、苦痛、悲しみ」によって人は神と結ばれる。「愛のきすな(縁)」である。
(†心のデボーション02230)
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