心のデボーション222

デボーション1
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† 心のデボーション 02211

「神光を晝と名け暗を夜と名けたまへり夕あり朝ありき是首の日なり」 創世1:5 明治元訳聖書

「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」 新共同訳聖書

 「夕から朝へ」

創造の一日は、「夕があり、朝があった。第一日」と語られる。そこからユダヤ暦では一日のはじまりは朝ではなく夕であるとする説がある。一日の終わりはいつかといえば、やはり夕で、つまり、終わりは常にはじまりを意味することになる。朝はすでに日の途中ということになれば、ものごとは寝る前にはじまる。ものごとを先に、先に、準備できる人にはピッタリの説というべきである。

(†心のデボーション02211)

† 心のデボーション 02212

「婦と姦淫をおこなふ者は智慧なきなり 之を行ふ者はおのれの霊魂を亡し」 箴言6:32 明治元訳聖書

「女と姦淫を行う者は思慮がない。これを行う者はおのれを滅ぼし、」 口語訳聖書

 「コミット」

「女と姦淫を行う者」は英語聖書では「Whoever commits adultery with a woman」(King James Version)である。直訳では「姦淫にコミットcommitする者」となる。「コミット commit」は「com ともに+mit 送る」で「気持ちを送り合う」の意味である。「姦淫」は双方が「気持ちを送り合って犯す罪」である。これを行う者は自分の魂だけでなく相手の魂をも滅ぼす。

(†心のデボーション02212)

† 心のデボーション 02213

「然れば死人の中より甦へり給ひしのち、弟子たち斯く言ひ給ひしことを憶ひ出して、聖書とイエスの言ひ給ひし言とを信じたり。」 ヨハネ2:11 大正文語訳聖書

「それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。」 口語訳聖書

 「望み」

共和制ローマのガイウス・ユリウス・カエサルに「Homines id quod volunt credunt. 人は信じたいと望むことを信じる」という言葉がある。(カエサル『ガリア戦記』) 信じたくない事実は見えないのだ。「信じたいと望むことを信じる」のが信仰ではない。「信仰 πίστις  ピスティス」は「聖書とイエスの言葉」への信頼である。神の言葉を「望み」、「確信」することである。(ヘブル11:1)

(†心のデボーション02213)

† 心のデボーション 02214

「人はみな虚偽をもてその隣とあひかたり滑なるくちびると貳心とをもてものいふ」 詩篇12:2 明治元訳聖書

「人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します」 詩篇12:3 新共同訳聖書

 「あぶない会話」

夫婦が互いにうその会話を交すとする。これは、結構、盛り上がるかもしれない。しかし、すぐに有害なものだと気づくだろう。では夫婦が全くうそを含まない会話を交すとする。これも、結構、盛り上がるはずである。しかし、やがて、それも有害だと気づくのではないだろうか? それでもことばを交す必要があり、交さずにいられないのが夫婦である。そうやって、何が「あぶない会話」かが、わかるようになるのである。

(†心のデボーション02214)

† 心のデボーション 02215

「善をおこなひ、善き業に富み、惜みなく施し、分け與ふることを喜び、」 Ⅰテモテ6:18 大正文語訳聖書

「また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、」 口語訳聖書

 「善をなせ」

「善をおこない ἀγαθοεργέω アガとエルゲオー」は「親切を行う」の意味である。「良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与える」の「善行」は人への親切な行為でなければならない。相手の存在を無視した「良きわざ、惜しみなき施し、分け与え」というものがあるからである。

(†心のデボーション02215)

† 心のデボーション 02216

「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」 マタイ4:4 大正文語訳聖書

「イエスは答えて、『「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と書き記されている』と仰せになった」 フランシスコ会訳聖書

 「パン」

人はパンを必要とする。しかし、必要なのは「石からつくられたパン」ではない。パンからつくられたガソリンを使うまい。それは貧しい人々からパンを取り上げることだから。しかし、それが「パンでつくられたガソリン」であると、どうしたら分かるのだろうか。

(†心のデボーション02216)

† 心のデボーション 02217

「ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り」 マタイ2:3 大正文語訳聖書

「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。」 口語訳聖書

 「死の不安」

ヘロデ王は東方の博士たちから「ユダヤ人の王として生まれたかたはどこにおいでになりまあすか」との言葉に「不安」に襲われた。ヘロデを襲った「不安 ταράσσω  タラスソー」は恐怖感をともなう動揺とともにあった。リルケの「死の不安」に通じる恐怖であったろう。人の心の底にある不安であるが、激しい不安感には新しい世界への希望が隠されている。ヘロデが自身の内的不安と向き合うことができれば、東方の博士のもたらした知らせは「福音」であったのである。

(†心のデボーション02217)

† 心のデボーション 02218

「なんぢらの諭言は灰に譬ふべし なんぢらの城は土の城となる」 ヨブ13:12 明治元訳聖書

「あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。」 新改訳聖書

 「灰の格言」

ヨブの友が語る「格言」は「灰」のようにむなしく、ヨブの心を欺き、惑わすばかりであった。「灰の格言」は「粘土の盾」と同じで、身を守ることはできない。悲しみに添うにはことばを捨てることが必要である。悲しみの心には悲しみをもって、そこに居ることしかできないからである。悲しみに沈んでいる人が、それを語りたい気持ちになるまで沈黙しているのが、真の格言である。

(†心のデボーション02218)

† 心のデボーション 02219

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

 「試み」

イエスを試みへと導いたのは「霊 πνεῦμα プネウマ」であり、同時に「悪魔 διάβολος  ディアボろス」であった。一つの試みに二つの異なる目的と導きがあるということは、「試み」には二重の意味と目的があることを示唆する。

(†心のデボーション02219)

† 心のデボーション 02220

「汝海に壞れて深き水にあらん時は汝の貨物汝の乗人みな陷らん」 エゼキエル27:34 明治元訳聖書

「今あなたは海で破船し、深い水に沈み、あなたの商品と、あなたのすべての船員とは、あなたと共に沈んだ。」 口語訳聖書

 「商い」

昔のことわざに「商人(あきんど)と屏風は直ぐには立たぬ。」という。屏風は曲げないと立たないように、商いは正直一方では成り立たないという意味であろう。そういう商人が手をもみながら腰をまげるのは、どこか信用ができない。穏やかな顔のかげで、したたかなソロバンを弾いているかもしれない。利益のためにだけ商う者は利益もろともに海に沈むとエゼキエルは告げる。

(†心のデボーション02220)

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